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四条烏丸

 まだ一年と少し、たったの14ヶ月程前のことなのだが、遥か昔にも感じてしまうのはこの一年以上続いているコロナ禍の所為であることは言うまでもない。2021年に入ってからの緊急事態宣言下では20時以降の帰路はいつも空腹を感じ、牛丼さえテイクアウトだ。夜はとても静かで、これはこれで落ち着くが調子も狂う。帰宅して軽く飲みつつ、腹を満たすと眠くなりそのまま朝を向かえることも少なくはない。仕事も減っているので、その分自宅での作業に時間の余裕があるのは悪くはないが、もうペースがかつてと全く異なり、一日が短い。かと思えば睡眠時間がまちまちな所為なのか、二日で一日みたいな時もある。これを書いている今は午前3時過ぎ、昨日であれば睡眠に入って4時間は経っていたであろう時間帯だが、今日はまだサッポロ黒ラベル350mlの2缶目を開けたばかりなのだ。
 
 とにかくその14ヶ月前、まだ今のコロナ禍を全く想像できなかった2020年1月半ば、私が長年参加しているストラーダというバンドで名古屋と京都に向かった。ストラーダのメンバーは私以外は以下。中尾勘二 (sax, klarinette)、関島岳郎 (tuba)、久下惠生 (ds) 。初めてこのメンバーで演奏したのは1993年なので、私が参加しているバンドでは最も長い。とは言え、途中数年間何もしなかった時期もあるし、ここ5~6年は年に1~2回程のライヴだけで、しかも結成以来ほぼ東京でしか演っていない。ほぼと言うのは、随分昔だが一度だけ横浜ジャズプロムナードに出演したことがあり、これがこれまでの東京以外でのステージでただの一度だ。そう、なんと今回がストラーダ初の関西方面の遠征だったのだ。このバンドの結成について話をすると長くなるのでかいつまむが、’92年サックス奏者の篠田昌已さんがコンポステラ(篠田、中尾、関島)としてブッキングしていた翌’93年の浅草木馬亭でのイベントが篠田さんの急逝により、関島・中尾ユニットとしてこの4人で演奏することになったのが初ステージだったと記憶する。その後暫くはバンド名はなかったが、アルバム制作に伴いストラーダと名乗る。実は名付けたのは私だ。コンポステラの最後のアルバムのライヴ盤のタイトルが『歩く人』だったので、だったら”道”と。そして”道”と言えばフェリーニのLa Strada。これまでの作品は『山道』(’95年)、『テキサス・アンダーグラウンド』(’98年)の二枚でその他にライヴ盤を二種『スイッチバック』『タブレット』と計4枚のアルバムをリリース。ただ、このライブアルバムの特典「見それた花」もアルバム並みの収録時間なので、計5枚と言えなくもないが、既に10年以上録音作品は無い。

 このバンドにはバンドマスターが存在しない。なので、物事の決定はそう早くない。ライヴは誘われれば、スケジュールの確認だけで済むが、自分たちからのブッキングは、そろそろやりましょうかね、という感じで、次はどうする?みたいなことは全くない。だから今回、関島の提案で名古屋と京都のブッキングが実現し、とても楽しみに東海道新幹線こだま号に乗った。

 名古屋はTOKUZO。久しぶりのストラーダでの演奏だったが、ただ奏でているだけが良いという感覚を再確認した。そして翌日は京都の磔磔。個人的には無意識に反応出来、嬉しく思う。言葉にするのが難しいが、ただ奏でることへの純度が2日目にして濃くなったとでも言おうか。アンコールは時間切れだったが、PA萩野くんのはからいで生音でのシーベッグシーモア。

 さて、今回はこの2日間の旅なので、終演後は飲む。久しぶりの方々と酌み交わす。ここの高い天井にホッとして、ビールも進む。東京からはNRQの牧野琢磨くんも来てくれているではないか。ビールから焼酎に移り一杯飲むが、そろそろ磔磔も店じまいだ、河岸を変えるとしよう。すると、よく京都でのライヴになにかと駆けつけてくれるMさんが案内してくれるという。宿は四条烏丸なので、楽器を一旦置いて繰り出す手はずを整えてくれた。仏光寺通りをエレクトリックとアコースティックの2丁のギター、そしてマンドリンをカートにくくりつけ、西に歩く。20分程か、烏丸通りを渡り、オリンピック需要を見越したであろう新しいホテルに着く。新規ホテル乱立の京都だが、まだこの時期は驚くほど低価格だ。手ぶらになった我々は再び烏丸通りを渡り、すこし東へ。Mさんは店に電話しているが、連絡がつかないらしい。が、まあ空いてますよ、と我々は後をついていく。ただの人んちみたいなところなんですけどね、とMさんの注釈がつくが、まあそれは気にしない。この夜もう少し飲みたいだけだ。店の付近で、ああ、電気ついてるから大丈夫、とMさんは確認し、建物の間なのか建物の中なのかわからない幅1mくらいの隙間を入っていき、我々もついていく。ここです、と言われた目の前の場所は本当に人の家の一室だった。しかも宴会後のとても散らかっている状態で誰もここを店だとは思わないだろう。一体何人がここで寝ていたのだ、というくらい布団の類が渦巻いていて、テーブル上の鍋の食い残しはもはやドラマ的でもあるが、これは明らかに意図ではなく真に宴のあとだ。しかも店主すら不在でここに居て良いのだろうか、と思うが、既にMさんは冷蔵庫から瓶ビールを持って来ていた。こんな状態だが、一杯飲んで煙草に火をつけると、馴染んでくる。片付けられていない布団の類はくつろげる良いクッションじゃないか。話を聞くとMさんはほぼ常連で、ここに連れて来たかったんですよ、と嬉しそうに笑う。「スペースネコ穴」。確かに入り口あたりに猫が二匹ほどいたな、なんて思いつつ、もうすっかりくつろいでしまっている。そうこうしている内に店主がようやく戻ってくるが、予想していない客に全く驚かず、じゃあ何か出すよ、と言って厨房に立つ。その前に片付けるだろう、とも思うが、この店の流儀を察知し飲み続ける。14ヶ月前の一晩の飲み屋のことなので、既に何を食べたかは覚えていない。ただ予想通りでは無かったことは確かで、いや予想以上の肴が提供され驚いたことは覚えている。実家から〇〇が送られて来たので、それにするわ、といって店主が少しだけ片付け、新しい鍋に火をつけた。皆と語らい、布団に囲まれ体が45度くらいになって力が抜けて、友達の部屋の散らかり具合で完全に気持ちよくなる。でもここは店で、しかも美味い。何を食べたか覚えていないのに美味かった、というのも変な話だが、このとっ散らかった部屋でいきなり提供されて驚いたことがそれを証明していると言えよう。漫画や面白そうな本もあり、ギターも転がっている。皆でフォークソングを歌って、このままここで眠りたくもなる。ただ、朝起きた時のことを考えると、それは嫌だ。翌朝も間違いなく片付いてはいないであろう。むしろ、自分たちで片付けている様子が想像される。

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 一人千円かそこいらの勘定で良き時間を過ごした。そう頻繁に会うわけではないが、長年の仲間と飲むのは、何気ない話ばかりでも落ち着き方が深いのだ。

 帰路、再び烏丸通りを渡り宿に向かう。と、そこでMさんがぐいと私の腕を掴み、もう一軒いきましょうよ、と誘われる。では、強い酒を一杯だけ、と皆を別れ人気のない道をついて行く。程なく、この奥です、と京都の町家風情の細い路地を入るが、そこは町家ではなく、夜空に電球色の街灯の本当の路地で、その奥にその店はあった。BAR GEAR。店内は適度にワイルドだが、きちんとした調度の店だ。強い一杯を飲むのにふさわしく、程よい音量でブルーズがかかっている。Mさんとは京都では幾度となく飲んでいるし、よくライヴには酒の差し入れもしてくれる。いつだったか、とても美味い焼酎を本番前にいただいて楽屋でヴァイオリンの太田惠資さんとかなり飲んだことがあった。そのままその一升瓶をステージに持っていき演奏していたのであるが、太田さんはステージ中盤からヴァイオリンは弾かなくなり、ダンスと歌でその夜のライヴをすべて持って行ってしまった、という素晴らしく痛快な思い出もある。なので京都で酒というと私はMさんの顔がすぐに浮かぶが、サシで飲んだのはこの時が初めてだったと思う。カウンターに陣取り、ではウィスキーをダブルでいただこうかな、普通のもので良いですが、と言うと、いやちょっと良いやつにしましょうよ、とMさんにけしかけられる。これどうですか、ボブ・ディランの酒。ディランが少し前に立ち上げた新しいウィスキーのブランド「Heaven’s Door」ではないか。が、店のマスターは、それ結構な値段ですよ、と、あまり積極的ではない。ちなみに無粋にも一杯いくら、と聞いてみるとそりゃ高い。だがMさんは、こういう機会ですから、と勧める。一杯数千円だったが、注文した。ただ、もう味は覚えていないが、思いの外すいすいと飲み干したので口当たりは良かったのだろう。シカゴ・ブルーズのアルバムの片面が終わる頃には眠くなり席を立つ。旅の〆の酒にふさわしい一杯とそのゆっくりとした時間を噛み締めた。Mさんが、ここは、と言ってスマートに勘定をもってくれた。誠に感謝の京都の夜。

 翌日は午前中遅めにチェックアウトした。他の三人は既にそれぞれ次の場所に向かっていたのであろう時間だった。

桜井芳樹(さくらい よしき)
音楽家/ギタリスト、アレンジやプロデュース。ロンサム・ストリングス、ホープ&マッカラーズ主宰。他にいろいろ。
official website: http://skri.blog01.linkclub.jp/
twitter: https://twitter.com/sakuraiyoshiki

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