やっぱり映画のワンシーンにならないや
相変わらず盛れないバエないキラキラしていない、何も起こらない日常を生きている。主人公になることもドラマチックな演出も求めていない。衝突は予知する。少しでも危ないと思ったら出会わないように先回りして違う道を歩く。私が主役になってしまった映画はきっとつまらない。「全編くそ映画!!」「何も起こらない!」「起承転結皆無!」と、レビューで酷評される未来すら来ない。映画になることのない私の生活。
そう言えば前にもこんなことを書いた。私はなんら変わっていないのだとぼんやり思う。刺激は欲しいけれど凪を好む、そんな自分には、日常のなかで小さなキラキラを見つけてこっそり育てるくらいが性に合っているのかもしれない。
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この前同僚に煙草をもらって吸ってみた。ちょうどお酒を飲んだあと、なんとなく吸いたくなって。
同僚が、元カレが吸ってたのと同じ銘柄の煙草を吸っているのは知ってた。そういえば元カレにひとくち吸わせてもらったことあったなって思ったけど、その時の味は特に覚えていない。
一本もらって火をつける。出来心で吸ってみた煙草は、美味しくも不味くもなかった。ミントがスースーした。北海道産のミント使用、みたいなパッケージの文字だけやけに記憶に残った。北海道でミントとれるんだなあ。煙草を吸ってこんな感想しか出てこない私は、煙草を吸わない方が良いんだろうなと思った。頑張れば元カレと煙草の話でエモい物語が作れないこともないけれど、そんなにエモい気持ちでもなくて、ああ私は大人になってしまったなと思った。過去にも賞味期限があるらしい。
パイの実のシュークリーム味を見つけたので買ってみたけれど、一口食べてスタンダードのパイの実の方が好きな味だなと思った。二、三粒で飽きてしまったけれど、私は飽きたなんて思いながら明日にはこの箱を空にしているんだろう。特においしいと思わずとも口に放り込めちゃう。これって、特に恋愛感情はないけれどとりあえず抱けるみたいなことと同じ原理だよなと思う。好きや嫌いよりも、ありかなしかで生きている自分がしょうもないなと思う。
肌荒れが酷くて、肌荒れが酷いなと思う。思うだけ。コンシーラーで上手く隠すコツを知ろうだとか、もっとビタミンをとろうとか、ひとりの時はなるべくマスクを外そうとか、そういう具体的な行動に移せない。本当にズボラだ。イヤホンが絡まったまま鞄の奥に落ちている。弁当の温めの数分すら待てずに、残り15秒を残して手動でチン!と言わせてしまう。貰ったお菓子の可愛い包装をあけるときに、ビリビリに裂いてしまう。丁寧からかけ離れた、静かな荒野で生活をする。
認められたい褒められたい誰かの力になりたい、そんな気持ちが先行してしまうと危ない。なんでもしちゃう。アメとムチのムチばかりくらっても自分がダメだからなんだと思い込んでしまう。私はもう同じことを繰り返したくない。どんなに大好きでも尊敬していても頼りにしていても、人はさいごはひとり。それを知ってる。
たしか、中学か高校くらいのときの日記にこう書いていた。「分かり合えないことを分かり合いたい」と。分かり合えない人間が一定数いることを諦めている私は冷たいのだろうか。皆に分かって欲しいと強く信念をもって歩み寄れない私はやっぱり冷めているのだろうか。あなたはドライだねとよく言われる。つい昨日も言われた。それは果たして褒め言葉なのだろうか。わからない。
必要以上に傷付きたくない。必要以上に傷付けたくない。それなのに文を書いているのは可笑しいなと思う。手帳にも、日記のような殴り書きのような記録を残しているけれど、それでも足りない夜があって、結局ネットに文を流してしまう。せめてネットでくらい夢みさせてよ。ネットはたのしい。今もネットの人の声を聞きながら書いている。人の声はありがたい。心強い。でもネットはこわい。ずっとこわい。たのしいものほどこわい、そういうものなのかもしれない。
早く秋になって冬になって来年になってせんぶぜんぶ過去になってしまえばいい。なんてね。時間は同じリズムで刻まれているから私はそれに従うだけだよ。
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何も大きなことは起こらないのに、不意に心を掴まれたり危うく泣きそうになってしまったりする、そんな日々。映画にならない日常も、日記集や短編集くらいになら形として残すことができる気がしている。いまこうやって残しているnoteが必要なくなる日は来るのだろうか。パイの実がいっこうに減らない夜に、そんなどうでもいいことを考えている。
ゆっくりしていってね