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冷たい夜中を生きる人

 10月下旬の夜は冷たい。冷たいのに、窓を開けてしまう。ぱちぱちと風が頬に当たる。またこの季節がやってきてしまったなと思う。寒くなると、私はダボダボのニットや大きめのパーカーを着て、袖で手の甲まで覆い尽くす。いわゆる「萌え袖」ってやつだけど、これでモテたことは一度もない。単純に、手足が冷えるから隠したい。「お洒落のために三つの首は出しなさい」なんてよく聞くけれど、私はすべての首をしっかり隠さないとすぐに体調を崩す。

 帰り道、コンビニで今季はじめてのホットドリンクを買った。ホットミルクティー。一口目がいちばん美味しくて、二口目は美味しい、三口目以降はだんだんと美味しさを感じなくなって、最後の一口はすっかり冷めている。恋みたいで寂しいな。冬のあたたかい飲み物はすぐに冷めてしまう。もらった缶コーヒーがぬるくなるのが悲しくて、温かさを懸命に両手にうつそうとした数年前。後部座席から左横顔を盗み見ていた深夜、車内で淡々と流れるモーニン。何故モーニンという曲名がついたのだろうってそのあと調べた。人種差別に苦しんでいた黒人の嘆き、呻めきに由来している、と書いてあった。あの時、偏見や世間体みたいなのに何か感じていたのかもしれないその人は、私を分けた。「こっち側」と「向こう側」で線を引いて、こんなところに足を踏み入れない方がいいよって言った。

 嬉しかった。嬉しくて、寂しかった。そのまま健全に生きなって言葉は、ある意味私の生き方を肯定していて、ある意味君には分かってもらえない、分かり合えないと否定していた。その時に思った。今よりもっと幼い私でも思った。夜中に働いて何が悪いの、と。夜を生きて何が悪いの、朝に起きて仕事に行くことがそんなに偉いの、家族を持って養うことがいちばん大事なの、どうして真面目に生きているのに差をつけられなくちゃいけないの。喫煙所の壁にもたれて宙を見つめるその人を見ると何故か胸が苦しくなった。

 わかりたかった。少しでも共感して、同じ世界を見たかった。それが傷の舐め合いだって今なら分かるけれど、それでも傷を舐め合いたかった。私の狭い世界は、あの冷たい夜中だけだった。ぬくぬく育ってきた大学生の私がわかるはずなかったのに。

 寂しさの反動で私はやけになって、昼間の「健全な」大学生を全うしようとした。カフェでのBGM演奏で、次々にレパートリーを増やした。夜中と夜中を生きるその人に突き放されたのではなく、自分の方が突き放したと思いたかった。それでもあの冷たい夜のことを忘れられなくって、ある日とうとう曲目にモーニンを入れた。「いやあ、しぶいね。そこでモーニン挟むとは思わなかった」と評された。笑って誤魔化した。あの冷たい夜を成仏させるためだけに選びましたなんて言えなかった。心が呻いている。

 今でも冷たい夜中には、真っ暗な布団の中でモーニンを聴く。暖房をつけているのに何故か寒い車内、二人きりのドライブ、冷えた手足の指先、左横顔、いつまで経っても褒められない萌え袖。二人しかいない狭い世界で何も起こらなくてほっとしていたし、何も起こらなくて絶望していた。それは愛にはならないよ、と、未来になった今だからそう言えるけれど、私が生きるのはいつだって「今」だからその場で理解できる日は来ない。

 それは愛にはならないよ、でも、人生のかけらにはなる。私も今、冷たい夜中を生きてます。いつか聞いたモーニン、生きていく上でうまれる苦しみと、理不尽に作られる苦しみは違うよね。今の私ならあの人に何とこたえるのだろう。



ゆっくりしていってね