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ミリヤが教えてくれた「わたしの寂しさがちゃんとここにある」



 「ほんとの私を知って」と、果たして私は一生のうちで言葉にすることがあるのだろうか。もともと感情を表に出すのが得意ではない。それが相手に伝える気持ちだとなおさら。でも、言葉にしないからと言ってその感情がないというわけではない。「形として見えないから存在しない」と捉えてしまうことが、私にも、世界にも、多すぎる。

 加藤ミリヤを初めてきいたのは中学生の頃。「Aitai」を歌う彼女をテレビ越しに眺めて、へえ、と思った。それだけだった。ちょうど隣にいた親友も、へえ、という顔をしていた。その頃の私には、まだミリヤが必要ではなかった。必要ではないというよりも、きっと本物の痛みなんて知らなかったし、恵まれた環境で幸せで、「相手と自分がいるからこその葛藤」や「人に恋をする、愛する、認め、認められること」「自分が存在することへの葛藤」なんて深く考えたことがなかった。私は長い間、ミリヤの歌の側を素通りしていた。

 大学生になって、友達の影響でミリヤを聴くようになった。ミリヤを聴きたくなるのは決まって深い夜で、深夜にモノレール沿いを歩きながら、最終電車の中で、布団の中でうずくまって、何度も何度も聴いた。

 ミリヤの曲を聴いてわき上がるのは、「共感」だけでは言い表すことができない言葉にしがたい感情だ。意地っ張りでかっこつけ野郎な私は、まっすぐにミリヤの曲を聴くことができない日がたくさんあった。「寂しい私」「みじめな私」「弱い私」を認めたくない日がたくさんあって、それでも何故かミリヤの曲を自然と再生してしまっていて、そんな日に聴くミリヤの曲は、私の心臓を深くえぐった。


 そして昨年、YouTubeの THE FIRST TAKE でミリヤが「ほんとの僕を知って」を歌うこの動画についに出会った。ミリヤの歌声はもう何度も聴いてきたはずなのに、こんなに心臓ってグラグラ揺れるのかと思うくらい言葉にならない感情が私を支配して、涙が出てその場を動くことができなくなった。とうとう観念した。私は寂しくてかっこ悪くて情けなくて人の愛情が欲しくて自分を認めるのに時間がかかって、いつも自分の内側に「助けて」って言っているのにそれを外に出すことが出来ない弱い人間だということを認めようと思った。認めざるを得ないと思った。だって、ミリヤの歌っていることばの意味がこんなにもわかるから。だって、ミリヤがこんなにもさらけ出して歌っているから。

 何度も何度も再生した。聴きながら、ずっと考えた。
 本当に強い人ってどんな人だろう。

 今まで私は自分のことを「強い人」だと思ってきた。それはたぶんある意味正解で、ある意味、大間違い。私は強く見える。それは確かだ。しっかりと物事を考えて自分で判断しようとするし、人の面倒をみたくなってしまうし、関わった人には必ず「長女でしょう」と当てられるし、我慢強い。でも、それは一つの側面での「強い」であって、私がまわりにその側面だけしか見せていないというだけだ。
 私は滅多に友人にも家族にも悩みを相談しない。身近な人に簡単に「しんどい」と打ち明けることができない。いつもギリギリになって限界がきてからやっとSOSを出す。それに、自分の痛みを上手にぶつけられないから、相手の痛みをぶつけられるとすぐにひるんでしまう。「寂しい」「苦しい」と人にちゃんとぶつけられる人は、相手の「寂しい」「苦しい」を同じように受け止められるように思う。私は、それがとてつもなく下手だ。そうだとしたら、私が思っていた私の強さも、優しさも、何だったのだろう。

 私にはミリヤのような覚悟がない。生きる上での覚悟、誰かと付き合う上での覚悟。「ほんとの僕を知って」と真正面から言える?私は言えない。今まで言えなかった。身近な人にすら格好つけて、いつも「それなりにうまくやってるよ」みたいないけすかない態度をとっていた。
 泣きたい時に我慢ばかりしていた。だから今も簡単に泣いてしまう人を見ると羨ましい。かなしみに共感することはできる。でもどこかで泣きたいのに泣くことが出来なかった自分が「あなたは泣くのが上手で羨ましいな」と言う。そんなの優しさでもなんでもない。私のただの我儘だ。
 「相手より最初に武器を捨てるのは、発砲するよりも勇気がいることだ」という文を本で目にした。私はいつも最後まで武器を捨てられない。相手が捨てるまで絶対に捨てられない。弱いところも不安な気持ちも、相手が見せないと見せられない。ミリヤは、いつも先に鎧を脱いで武器を捨てる。私のような意地っ張りな人間にも、「ちゃんと寂しがって、弱いところ見せて、それでもいいんだよ」って、そのやり方を見せてくれる。ミリヤが歌う時、心を奪われて目を離すことができないのは、その姿の全てが格好良いと感じるからだと思っている。


 ついこの間、とても大切な人に「後悔している」と言われた。「後悔している」と言えるあなたは偉いね、そう思った。私は強がって頑固者で、後悔していると認められなかったことが数えきれないくらいある。「後悔している」とひとこと言うことができたらどんなに楽になっただろう。それでも言えなかった。そんなところでも見栄をはってばかりだった。
 ミリヤが歌う。「もう一度振り向いてほんとの僕を知って」「愛する人よ戻ってこないかい」「笑われてもいいよ」「惨めでも哀れでも全部脱いで裸になるから」そんなまっすぐな気持ちをぶつけられる人は、たぶん、強い。弱いところも全部さらけ出すことができるミリヤは、強い。そして優しくて愛情深い。人をどこまでも思うことができる、人がいるからこその自分だと知っている、だから、優しい。

 ミリヤの歌は、誰も排除しないなと思う。本当に痛い人しかその痛みが分からないとしても、ミリヤは「痛くない」人のことも蔑ろにしない。正直調子の良い時の私は、滅多にミリヤを聞かない。でも、ミリヤの歌にどっぷりつかって涙を流すこともある。痛みを再確認することもある。すがりたい歌がある夜なんていくらでもあるし、これからも必ずある。そんなふうに思い出したように都合よく聴くだけの私のことも、ミリヤは突き放さない。「今日は悲しいことがあったから」「寂しくてひとりが心細い夜だから」と、都合よく私はミリヤを再生する。ミリヤの歌は、必要な時にそっと寄り添ってくれる。
 たまに目にする、痛みを持つ人が放つ「私の気持ちも思いも分からないなら、痛みが分からないなら分かってくれなくて良いよ」「本当の痛みを知らないくせに」と自分の気持ちや状況とかけ離れた人を突き放す言葉。それはそうかもしれない。確かにその人の痛みはその人のものだから。だけど100パーセント分からないわけではなくて、感情が交わる部分が少しでもあるのなら、はじめから突き放すことはしないで欲しかったなと勝手に傷つくことがある。でもミリヤは、自分の痛みを「特別な痛み」にしない。「皆どこかで持っている痛み」にしてくれる。だから私は安心して思いっきり寂しがったり悲しんだり泣いたりできる。ミリヤのおかげで。

 ミリヤが歌うのは恋のことばかりじゃない。ミリヤが歌う葛藤は、「生きる」につながる。生きて、感じて、思うからこそ、折れてしまいそうなときに寄り添ってくれる。そんな覚悟を自分の中にとどめず私たちに届けてくれるミリヤの生き様が好きだ。大好き。誰もが心にミリヤを飼っていて、ミリヤの曲を飼っている。寂しいときは寂しい曲を聴いて良いのだ。「私を見つけて」「私を知って」「私の寂しさがちゃんとここにあるよ」それを否定しないミリヤの音楽に私はきっとこれからも救われていくんだろうなと思う。






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