苦労の美徳化



自分の辿って来た「苦労」と呼ばれるものを
どこかで美しいと思って来ていた。


「こんなに大変な思いをしたんだから、報われるべきだ」と言うふうに


「苦労」は「いつか報われるいいもの」と認識していたから、
こんなにも苦労に恵まれた人生だったのではないか?

と考えるようになった。



何か同じような「苦労」を知っている人は
辛さが分かるから、自分にとって
「分かってくれる人」
という立ち位置になり、


反対に苦労していない人を
この苦しみを知らない=「分かってくれない人」と、どこか歪んだ角度で人を見ていてしまったのではないだろうかと。





「経て来た苦労」を「だから私には出来ないんです」と、自分の盾のようにして使っていたけれど


本当は、それを「変わらなくていい理由」として振りかざしていただけなのかも知れない。



結果、自分を守っているようでなにも守れていなかった。



だから私はもう、
これまでの「苦労」を美しいものだなんて思わない。



悲しみを語る材料で終わらせるのはやめて、
自分を活かす矛として


どうせなら、自分にとってプラスのものにして使ってやろうかなと思います。 






苦労して来た人を
一概にダメだと言いたいのではなく、

苦労なんてない方がいいに決まっている。

だけどもう経験してしまっているのなら
自分がこれから生きていく上で、プラスに変えていくしかないよな


という捉え方です。





「若い間に苦労は買ってでもした方がいい」と言う言葉がありますが


苦労をするとひとは強くなれるのではなく、

ほんとうは、苦労をするとひとは弱くなります。

トラウマにもなります。


だから苦労なんてしない・知らない方がいいのですが、


苦労を通ったからこそ
見えたものや、気付けたこと
というのは確実にあって



だったら、
人生においてマイナスで終わらせるのではなく
『これからを生きるための指標』な学びとして
完了させればいい
のかなと


そんなことを思いました。




無理矢理、なにかいいものにして活かそう!
などとはしなくて良いと思いますが、

その経験から、何か学べたことは
これからの自分と向き合うきっかけになれるかも知れないからです。







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