見出し画像

借金200万円→月収200万円を目指す物語

2019年1月22日(火)
借金約200万円のアラフィフオトコが
インターネットを使ったビジネスで
人生を逆転させる物語がはじまる。

私の名前は 矢後至譜(やごみちつぐ)
これまで素直に読めた人は2名しかいないくらい、珍しい名前で
自分の名前を漢字で書くのに苦労する典型的なタイプだ。

習字の時間がホントにキライだったよ。
この点では名付け親のとうちゃんを何度もうらんだな。

1969年9月19日生まれ のA型、星座は気にするな。
出身は大分県の真ん中あたりにある、電車が通らないのに バスが1時間に1本という、自家用車がないと死ねる程度の ど田舎だ。

生まれた時の体重が 2,600グラムと未熟児寸前だったが
(いまは”低出生体重児”というらしく、認定は2,500グラム以下)
100日後には7,400グラムまで成長

赤ちゃんの3ヶ月後の平均体重は5,100グラム~8,000グラム
だそうで、しかも普通は約2倍程度の割合で増えるみたいだから、
約3倍ってのは、なかなか驚異的な伸びだね。

(※実家で出てきた当時の赤ちゃん手帳、1ヶ月で約2倍になってるねw)

”小さく生んで、大きく育てる”

これを実現させた、うちの かぁちゃん には頭が下がる思いだ。
その後もすくすくと成長を続け、小6ではクラスでも1番デカい部類にはいってた。
たしか170cm 68kgだったと思う。

ちょうどその頃、プロレスが好きでプロレスラーを目指していた。
実は小学校の卒業文集に”歌手になりたい!”と書いたことは内緒だ。

中高と柔道部に在籍、
どちらでも主将をつとめ県大会くらいなら常連で出場してた。
この間もプロレスラーめざしてたけど、いろいろな妨害にあった。

それはまた別の機会に詳しく話したいと思う。

高校卒業と同時に上京し、新日本プロレス主催のプロレス学校へ入るも、1年でプロレス学校自体が消滅、自分もバンド活動とかやったりして迷走、
自分でもなんでバンドとかやろうと思ったのか謎だ。

そんなフラフラしてるもんだから、
親から田舎へ帰れ!就職しろ!と強引に帰郷させられた。
私も目標を見失ってたから、特に抵抗もしなかったね。

それで田舎に帰って、工場作業員として就職したものの、
「なんか違うんだよなぁ」
なんていつも考えてたんで、仕事に身が入らないし面白くもないと
仕事をサボるようになっていった。

当然、そんなことやってるから会社には居づらくなるし、家にも居づらくなってきて、福岡の派遣会社へ入って逃げるように実家を出たんだ。
福岡に引っ越してからも派遣先の工場作業員をやりながら、

”自分の人生ってこんなんでいいんだっけ?”

と、自問自答を繰り返していたなっけな。
そんな時、しばらく見ていなかったプロレスを見たんだ。

”そう言えば、オレ・・・プロレスラーになりたかったんだよな!”

迷走に迷走をしまくって、ようやく気がついた本来の目標
思い出すのに2年もかかってしまった。

思い出してしまえば、行動は早かったな。

身体を鍛え直さなきゃいけない!
プロレスラーになる手順を確認しなきゃいけない!
そもそも東京に出るための方法を探さなきゃいけない!

トレーニングはいままでもやってたからすぐはじめられた。
プロレスラーになるには入門試験を受けるわけだけど、
当時は決まった時期に試験があるわけでもなく、
いつ開催されるのかもわからない状態だったので
それまでどうすりゃいいのか?と調べた結果

「アニマル浜口道場」

という、元プロレスラーのアニマル浜口さんが経営する
トレーニングジム兼プロレス道場が浅草にあって、
そこからプロレスラーになる人が増えているということを知った。

”よし、ここに入って入門試験の情報が出るのを待とう!”

目指す場所が決まれば、はやく動きたくてしょうがなくなり、
親には内緒で派遣会社には退職願いを出し、お金もなかったので、
「引越し費用負担します!」と求人広告にうたっていた
運送会社に応募して、東京へ舞い戻ったんだ。

人間は目標が定まってしまえば、行動力って生まれてくるもんだよね。
この時にそれを実感したけど、それに気がつくのはまたずっと先の話
気づくのが毎回遅いんだよな(苦笑)

ちょっと長くなったので、続きは次回にまわしますか、
もう少しだけ私の自己紹介にお付き合いくださいね。

それでは!

サポートがあるとちょっと目標に近づくのが早くなります。 大感謝します!