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【シェアハウスはコミュニティと呼べるか?みんなで生きていくとはどういうことか?みんなの範囲はどこまでか?「終わりなき日常を生きろ」であり、あるいは「世紀末を”越えた”作法として】


タイトル見ただけで自分では絶対に手に取らなかった一冊(笑)

宮台真司×野田智義「経営リーダーのための社会システム論」読了。

経営リーダーのための社会システム論 構造的問題と僕らの未来 (至善館講義シリーズ) https://www.amazon.co.jp/dp/4334952933/ref=cm_sw_r_cp_api_i_HP56NQHB9QB7DQ3VQJE2

どなたか信頼できる方がおススメされてて、思わずポチッとして、そのまま積読になってたのを、五島列島なかむらただし社の中村さんが紹介されてて、そのことばに惹かれて慌てて読む。読み出して止まらなくて一気に読む。

先日も友達と話してて、ふとどちらからともなく、
「家族ってめんどくさいね。」
って、言葉が出てきて、深く深くうなづきあったのだが、大事なことは、”そうにもかかわらず”、でもやっぱり大事なひとたちで、何かあったら、なにかしなきゃ!って思える人たちなのだという”感覚”だ。
それは”友達”とか、”仲間”とかも同じで、なので、僕は正直に言うと、(うちの生徒とかもたまにいたりするのだが)
「なんで、あたしが、そのひと(同じクラスのだれかなど)のためにそんなことやらなきゃいけないんですか?」
とかいうセリフを迷いなく言われると、がっかりする(笑)
いや、くりかえすが、わかるよ(笑)俺だって、そういうこと言うさ。むかつくやつはむかつくさ。それでも、ほっとけないとかいう”感情”ってわかないのかな?っということである。
…といったことを宮台真司は「感情の劣化」、「システム世界」と「生活世界」といったことばで読み解いていく。
個人的には、「シェアハウスはコミュニティと呼べるか?」という学生さん(※この本は、至善館での講義をまとめたもの)との問答が印象的でした。

僕が自分の人生に影響を与えた本として外せないのは、やっぱり阪神大震災、そして麻原彰晃逮捕(逮捕の瞬間、授業中、小笹君か壱岐ちゃんがラジオで聴いてたな)のあった95年、そのオウム信者や、震災後のボランティアたちの姿を"さまよえる良心“のフレーズで解説した「終わりなき日常を生きろ」である。高校3年の時だった。

終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫) https://www.amazon.co.jp/dp/4480033769/ref=cm_sw_r_cp_api_i_VFY3N4J27Z4RDDV83DT5

なにゆえに優秀で真面目だった若者たちがサリンを撒いたのか?、なにゆえに、災害時に集まったボランティアたちが、もはやボランティアがメインであるフェイズを過ぎても、いつまでもボランティアとして居残り続けるのか?

日常は、残念なくらい平凡でつまらなくて、生きがいが見つからない中で、

"自分の居場所、自分が輝く場所"

をみつけて、そこから離れられなくなること。災害現場が、既に”ある程度の日常”が戻っているにもかかわらず、元の自分のつまらない日常ではなく、ドラマチックな舞台に留まり続けたいと思うこと。

真面目ゆえに、ピュアさゆえに、

実際には、クソみたいなことで溢れる現実の、白でも黒でもない、"灰色のリアル"への耐性がなく、

純粋なものを求めるゆえに、たどり着いたのが"極端な信仰"であること。

社会学の基本をベースにして語られることばの鋭さと、

一般に言われる言説とは一線を画す、”思ってもいない帰結”に、だがしかし、たしかに世の中はそうなっている的納得感に震えた。

ただし、その鋭さゆえに、あるいは、宮台真司本人としては"戦略的な振る舞い"としての、扇動的、挑発的な言説と、
あるいや宮台真司としては、古い伝統(のように見えてそうではない偽物の伝統)や、道徳(のような、仲間内だけの同調圧力)のような、”日本での生き難さ”を、打破する”可能性”を託しての若い女の子たちの”性の自己決定”などの話は、それこそ”見ないでいたい”気分にさせられ、あるいは、「一部は特殊ではない」(ゆえに、帰属処理とか切断処理をして、”自分と奴らは違う”と、自らを安全圏におくのはヘタレ)という言葉が刺さりつつも、とはいえ、「全体がそうではない」っていうことに対する過剰さみたいなものも嫌になったりで、いつのまにかちょっと宮台真司から離れていった気がする。そもそも宮台真司だけが真実を知っているわけではないし、宮台真司だけが社会学でもない。

といった感じで、いつのまにか忘れたことにしてた宮台真司。
それが再び現れたのは、2011年の東日本大震災。”災害の現場の当事者”として過ごしていた中で、ボランティア、そして95年の阪神大震災以降に”生まれた”、”ソーシャルな若者たち”のなかに、まんま”終わりなき日常を生きられない姿”を見ることになる。人は、人の営みは、くり返されること、ひとはそれほど賢くなく、また、やはり寂しさを抱えて生きているというどうしようもないリアル。四半世紀の時を経て、再び震えた。積み上げられた知の持つ価値みたいなことも改めて思った。

そこからも10年余り…

そうか、この本が言ってることは、「終わりなき日常を生きろ」ってことで変わらないんだとふと思った。”生きろ!”は、上からの命令ではなく、それは自分自身への言葉であり、これほど「安全、快適、便利」”なのに、”生きづらい”という”社会の荒野”を、にもかかわらず、生きろ!であり、でも、それでもそこは、きっと、”気づかないような隙間に咲いた花”みたいな、小さなよろこびだってあるんだぜっていう、確信を持ちながらの自分と”みんな”へのエールなのだ。薄っぺらな”わくわく”とか”きらきら”なんかぶっ潰しての、絶望の先の希望を見失わないという決意と祈りなのだ。いいとこどりはできないめんどくささを手放さず、しかし,自分らしさを手放さずに大切なひとたちと共に生きる。

だから再び、
あるいは今こそ、
終わりなき日常を生きろ。

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