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自分のことを凡人と認めるタイミング。


ミチムラです。


みなさんは、自分のことを天才だと考えていますか?

あるいは、いつまで自分のことを天才だと考えていましたか?

誰しもがそうだと思うのですが、

「自分は天才だ。ひととはちがうんだ……」

って思っている時期ってあるじゃないですか、まちがいなく。今回はそんな話です。


自分ごとなのですが、僕はこの時期がとても長くて、22歳くらいまでこれでした。長くてはずかしい……

なんの天才かというと、文章の才能。思い上がりも甚だしい。

なんの根拠もなく、ただただ自分にはほかとはちがう、ひかるものがあると思っていた。それまで一度も小説賞の選考に通過したこともなかったし、それどころか、ろくに小説を書いてすらいなかったというのに。


しかし、24歳目前の冬、22歳のときに書いた小説が、太宰治賞の2次選考に通過した。通過作は1201篇中27篇。それなりの倍率だ。

はじめて文学賞の選考に通過したということで、それだけでテンション爆上がり。

「もしや、ほんとうに才能が……??」

などと、やっと沈んでくれていた思い上がりが浮上してくるのを、自分でありありと自覚したわけです。

だからその年、2019年は、これまでのペースではおよそ考えられないペースで小説を書いた。投稿した賞と結果は以下のとおり。

•第35回太宰治賞2次選考通過
•第51回新潮新人賞投稿 1次選考落選
•第99回オール讀物新人賞投稿 1次選考通過
•第2回阿波しらさぎ文学賞投稿 1次選考落選
•第54回北日本文学賞投稿 4次選考通過
•第36回太宰治賞投稿

6作執筆し、そのうち5作を投稿、1作はお蔵となった。年内に3作が1次選考以上を通過した。

選考を通過したことよりも、その旺盛な創作意欲のほうがいまとなっては信じがたい。なんといっても、選考に通過したということが気持ちのうえで大きかった。だれかが読んでくれているのがわかるというのは、それだけで力になるのだ。

そして、こうなってくると結果がほしくなるのは当然のことで、前回2次選考まで通過した太宰治賞にあらためて挑戦した。前作よりもよくできているとも思った。

しかし結果は1次選考通過止まり、2次で落選した。

1440篇中88篇。

べつにわるくはない。ひとによってはこれでもすごいと思うひとはいる。10年やって1次選考すら通過できない人間はたくさんいるのだ。

僕は自分に才能があると思っていた。あるいは、そう思いたかったのだ。さすがにもう天才などと思いあがれるほど、ばかではなくなっていた。でも、それでも、才能があったうえで努力をすれば、きっと自分はきちんと評価されるはずだと。

でも、結果はどうか。88人に残れても、2次の16人には残れない。それがすべてなのだ。

この1年で思考がまるでかわってしまった。あれほどうれしかった選考通過をよろこべず、あの苦しさでこの結果か、というかなしみばかり。

このとき、僕はこころの底から、自分は凡人だと自覚した。才能などかけらもない。


しかし、そう思うことができると、なにか自然と自分のことを受け入れることができた。そして、なにも小説に固執するひつようはない、とも思えた。



『自分に才能がある』と思うということは、自分がその物事に執着しているからかもしれない。執着してしまうと、視野が狭くなる。考え方も偏る。

だからいったんそうした執着から解き放たれると、視野がぐんと広がりを見せる。そしてなにより、これまで行ってきた執筆作業によって培われてきた力、『言語化する能力』はそのまま自分のなかにありつづける。

僕はこれまで小説を書くという一点においてのみ、言語化能力を使ってきた。noteはその片手間だったし、とくに注意を払わない文章だった。でも、それはこれまで小説を書いてきたことによって、『注意を払わなくても書けるレベル』にまでなっていたから苦もなくできていたのだ。

実際、僕のnoteがほとんど推敲なしの一発書きであることや、かけている時間などを話すと驚かれることがある。

自分ではあたりまえのつもりでも、他人からしたら、それは立派な能力だったりするのだ。


タイトルである、天才でないと認めるタイミング、についてだが、僕は文学賞の落選によって、才能がないことを自覚した。他人からしたら、あると言うひともいるかもしれないが、自分自身では、ないと思っている。

でも、それを自覚するタイミングがあと2年はやかったとしたら、僕は2019年の作業量を一生こなさずに生きていくことになっただろう。ある意味では、僕は自分の才能を信じていたからこそ、この力を身につけることができたのだ。

だから、その過信によって努力をすることができるのであれば、自分を天才と勘違いする時間も、決して悪いことではない。

なにか才能があるかもしれないと気づくタイミングはひとそれぞれだ。そのときはまず、その才能を過信してみるといい。そして、まっすぐに努力してみるといい。

たとえ才能がなかったとしても、自分になにかしらの能力やスキルが身についていたら、それでいつか勝負できるときがくるはずだから。


ミチムラチヒロ

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