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#62 8月6日を迎えるのは憂鬱であるはず

ずいぶん前、もう30年以上前だ。街頭で若者に、8月6日って何の日ですか?と聞いてまわるテレビの報道番組があった。若者は、知らないとか、頓珍漢な回答をするのを冒頭でやってみせて、その後に戦後の問題としてコメントするような番組がだったと記憶する。

もちろん広島に原爆が投下された日なのであるが、それから30年以上経過した今日、テレビはどのような報道をしているのか、昨今の政治報道をみていて、それほど真剣に報道していいる気もしないから、見ていない。

それどころか、世の中でどれほどの人が原爆の日を記憶すべきだと内心おもっているのか、それすら曖昧である。今日の朝(6日)ラジオをつけると高校野球の入場行進の実況をしていた。車を走らせていると、警察署の前には国旗が半旗となっていた。気づいたのはそのくらいだ。

犠牲者に黙とうをささげることを強制するような法律はごめんだが、倫理の問題として、静かに反省を一瞬でもすべきだろうという気がする。経済活動も仕事も通常におこなわれるなかで、ふとそういう日だという気づきすらないほど平和なのだろう。

広島サミットで各国首脳が原爆資料館を訪問したことを大きく報道しているのを見て、その実現に70年以上の時間が必要だったことに改めて懸念を持つ。日本は核拡散防止条約には批准しているが、核兵器禁止条約には日本、米国などの核兵器保有の国は批准していない。福島原発の処理水の海洋放出でも安全性が問われている。

科学的根拠と政治的判断のバランスと駆け引きの中で、歴史から学ぶとはどのようなことをいうのだろうか。原爆投下と第二次世界大戦を経験し、歴史が検証したうえで学ぶべきことは明解である。核兵器の廃絶。戦争の放棄である。にもかかわらず実現していないことを憂鬱に感じながら葛藤する一瞬が心のどこかになくなったとき、また繰り返しがはじるのだろう。

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