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風に舞う鳥と、カーネーション。

僕の母は、風に舞う鳥のようだと思った。

良く晴れた日曜日。その日は母の日だった。

お小遣いで買った一輪のカーネーションと母が好きだと言っていたナッツの入ったチョコレートの小さな箱を手に、ご機嫌で家に帰った。

それなのに台所にも居間にも、母はいなくて、僕は、2階の寝室やトイレや風呂場を覗いて回った。母がいつも身につけていたエプロンはダイニングテーブルの椅子にかけられていた。買い物に行く時にもつ布製のバッグも、壁のハンガーにかけられたままだった。家の中は、何も変わっていないのに、母の姿だけがこつ然と消えてしまったように感じた。

「ママ〜!」

僕は、不安で、泣き出してしまいそうだった。

あの時、僕は、小学3年生だった。すでに、男の子は、簡単に涙を流すものじゃないと思っていたし、大好きな人や弱いものは守らなくてはいけないと真剣に考えていた。二十歳になって、始めて付き合った年上の彼女から「男だって、泣いていいし、女は、だた守られたいとは思ってないのよ。」と真顔で言われた時は、衝撃だった。「そうか、そうだったんだ」少しだけホッとしたのをよく覚えている。

小学3年生の僕は、ガランとした家の中で、母の姿を求めながら、必死で涙に堪えていた。父は、寡黙な人で、週末でも大学の研究室に通うような男だった。物心ついて以来、僕は父と一緒に遊んだこともなく、父の膝に抱かれた記憶すらない。その頃住んでいた家は、古い木造家屋で、東京ではめずらしく広い庭があり、大きな木が何本も植わってた。台所は家の北側にあって、古くさいステンレスのシンクに瞬間湯沸かし器、床はくすんだ色のリノリウムのタイルが敷き詰められていた。客間には仏壇があり、そこの空気はいつも湿っていてた。顔をあげれば、表情の無い曾祖父や曾祖母の白黒写真が、鴨居にかけられていた。

日曜日の午後、誰もいない家の中は、薄暗くて、そこここに、何かが潜んでいるような、そんな気配がした。

涙がこぼれそうだった。「ママ〜」と、もう一度叫ぼうとした時、暗い座敷の向こう、明るい縁側から鳥の声が聞こえてきた。暖かい風にのって、その声は僕を誘っている。

Tシャツの肩袖で、目に溜まった涙と鼻水を拭って、走って縁側に出た。

暗い家の中とは別世界が、そこに広がっていた。

葉桜の下で、母は、クルクルと回りながら歌を歌っていた。母は、洗いざらしの青いワンピースを着て、髪は耳の下でざっくりと切られていた。母は、美人でなかったし、どこからどう見ても「おかあさん」という種類の女だった。それなのに、その時、彼女の身体は、キラキラしてまぶしく光を反射させていた。

「あきくん、お帰り〜。」

僕の姿を見つけ、母はニッコリ笑い、僕にむかって両腕を広げた。僕は、嬉しくて母に飛びつきたかったのに、動けなかった。裸足で庭にとび下りるのもはばかられた。母は、自分から僕に近づいてきて、僕の手からカーネーションとチョコレートを受け取った。母の身体は、心無しか左右に揺れているように見えた。

「ママ、いっつも、ご飯つくってくれて、ありがとう。」僕は、照れくさくて、下を向いて、小さな声でそう言った。

僕を見る母の視線は、どことなく宙を舞い、左手で手の甲が白くなるほど、カーネションを握りしめていた。

「一人で家の中にいるとね、悪いものがごぞごぞ動きだすのが分かるの。それが、すごく怖いの。でも、悪いものは、お日様の光の下には出て来れないでしょ。それに、あきくんが帰ってきてくれたから、もう大丈夫だね。」

そんな母を見て、僕は、またしても不安にかられた。焦点の合わない目で微笑んでいる母が、風と一緒にどこかに飛んで行ってしまいそうな気がしたからだ。

               * * *

あの母の日から、ずいぶんと年月は流れた。父は、今でもあの家に一人で住んでいる。庭の手入れも大変だし、もっと便利なように改築すればいいのに、そんなことは意に介さず、気ままに暮している。40を過ぎ自分自身が親になったことで、ようやく、僕は父と向かい合って話ができるようになった。母は、東京から少し離れた山の中にある施設に入っている。

5月の第2日曜日に、僕は、母に会いに行く。母は、明るい光の下で、あの時と同じように歌っている。最近は、僕が誰だかわからないらしくて、僕の顔を見て「こんにちは、はじめまして。」と言う。

「私には、小学生の息子がいるんですよ。」

白髪の短い髪を片手で押さえながら母は、僕に話しかける。足元に咲いている小さなすみれの花を細い指先で摘んで、僕にさしだす。

「息子はね、スポーツ少年団の野球のチームに入っていて、今日はね、母の日だから、試合の後に、会いに来てくれるんです。足も速いからマラソン大会でいつも入賞するの。主人は、頭はいいんだけど、運動は全然だめでね。あの子の運動神経は私に似たの。」

まるで他人に話すように、彼女は、楽しそうに僕の記憶を語る。

「あの子がいてくれるだけでいいんです。元気な顔を見られるだけでいいんです。あの子は私の宝ものだから。あっ、来たみたい。ほら、ほら、向こうから歩いてくる子がいるでしょ、あれが息子なの。紹介しますね。あの子、ちゃんと、挨拶ができるといいんだけど。」

そういうと母は、子どものように、にっこりと笑い、楽しそうに鼻歌を歌い始めるのだった。そして、葉桜の向こうにいる、彼女にだけ見える小さな少年に手を振る。

僕は、あの時と同じ、母を求めて泣きそうになっている少年のままだった。


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