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僕は、落語家ではない

僕は学生時代から落語を始めた。プロの師匠に弟子入りすることはしていないものの、今でも定期的に披露を続けている。オーストラリアという異国でも場を設けて落語ができるというのは本当にありがたいことだ。

学生時代こそ落語研究部に所属し、落語を演じる人間に囲まれて生活していたため、それが当たり前となっていたが、そこから離れて他のコミュニティに所属してみると、落語ができる人間というのは非常に稀有な存在だ。特に異国では唯一無二ともいえる落語というスキルは、僕にとってある種名刺代わりのものである。

日本人同士で僕を紹介する時に、友人がよく「彼は落語家なんだよ」なんて紹介してくれたりすることもある。

しかし申し訳ないのだが、僕は「落語家」ではない。


「ん?何言ってんだ?」と思われる方もいるかもしれないが、落語に携わったことがある人なら「うん、そうだね」と頷いてくれることだろう。


例えば、

僕が今から適当に鼻歌を歌う。小さい頃少しピアノをやっていたため音の感覚については普通の人より自信があるが、あえて音階は適当にする。

「フンフンフーン♪」

はいできた。曲名は「デンジャラスオブ、デンジャラス」にする。これも適当だ。

こうして僕は、曲を、作った。

しかし、僕は「音楽家」ではない。

これは皆さんも納得できるところだろう。「音楽家」とは、音楽を職業としている人のこと。生計を立てるための仕事として、音楽を行っている人のことを指すのだ。僕が作ったこんなちんけな曲では、生計を立てることなと万に一つの可能性だってない。

あるジャンルのスペシャリストである「〇〇家」と呼ばれる人たちは、一般的に行っていることが職業として成り立っている場合にそう呼ばれる。落語家もそれは同じだ。落語の公演を通して、お客さんからお金をもらうことで初めて落語家と呼んでも差し支えないのだろう。

しかし、プロとして活動していないアマチュアであっても落語をやっていたら、周りから「落語家」と呼ばれることが他の「〇〇家」に比べて多いのが現状だ。

プロもアマもひっくるめて「落語家」と呼ばれることが多いのは、アマチュアで落語を演じる人の呼称が一般的に浸透していなかったり、一貫していなかったりすることが大きな原因だろう。プロと差別家するために「アマチュア落語家」などという呼称がなされることがあるが、これも個人的にはあまり納得いかない。そもそも言葉として矛盾している。「たぶん絶対」という文言と同じようなものだ。とすれば他にいい呼称はないものか。「アマチュア落語演者」・・・ちょっと固い。

「アマチュア落語プレイヤー」はどうだろう・・・うーん、やっぱりちょっと長いし「プレイヤー」という言葉にちょっと違和感がある。いや、確かに落語を演じる、というのを端的に表している点では素晴らしいのだが、横文字が多く使用されていることで落語をやる人が醸し出すような「和」の雰囲気をかき消しているような気がしてしまう、考えすぎかな・・・

このプロフェッショナルの落語家以外の落語をする人を総称可能な言葉については、今後も色々と、小さい世界で議論されるところなのかもしれない。めんどくせぇやつだなぁと思われるかもしれないが、この案件は拘るべきところだと思うし、できるだけ多くの人に知っておきたいところである。


とはいうものの、

学生時代に、僕が落語研究部に所属してることを知ってる同じ学部の子に「落語家やんな?」と聞かれることが一度あった。のだが、

「いや、落語家ってのは、プロで生計を立ててる人のことを言うのであって、、、」

なんて説明してるとそれこそ、「めんどくせぇこいつ」と思われざるを得ない。そしてただでさえ少なかった友達がより少なくなる可能性があったため、

「あ、うん・・・」

と返答したことはあったりする。

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