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115/1096 輝く思い出のつくりかた

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で115日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

115日目になって、書くタイミングを攻めの時間帯に持ってこようと考えた。もう日本は夜の12時に近い!このままでは毎日投稿が途切れてしまう!と、あとのないジリジリの攻防をするのも精神衛生上良くない。
ディフェンダーとして書くよりは、フォワードとして書いた方がいい気がするぞ!!

先ほど前日分を書き終えて投稿したばかりだけれど、日本はもう日付が変わっている。それならば、もう次を投稿することができるのだ。
新たな24時間の始まったばかりの、先頭の位置から書けば時間を気にすることもない!ひっひっひ、良いアイデアだ。

できれば、楽しみに読んでくださっている方たちがまだ起きている時間帯に新しい投稿を読めるようにしたいとも思っていたから、今から書いてみよう!
このことで、怠け者感がさらに遠のくのを感じる。

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上にサッカー用語を使ったことで、昔前夫に付き合ってテレビでサッカー観戦をしたり、一緒にサッカーゲームに明け暮れた日々を思い出した。
楽しかった…あの頃はそれをこんなに良い思い出として思い返すだろうとは思いもしなかったけれど。

わたしは前夫との思い出に頭を巡らせたときに、必ず思い出す場面というのがいくつかある。
そのうちのひとつに、真冬のキンキンに寒い借家で、一人用の小さなコタツを改造してビッグこたつにしたら最高なのではないかと思いついた、ある夜のことがある。これを不思議と何度も思い出す。

わたしは実家の自分の部屋で一人暮らし用ミニごたつを使っていて、実家がなくなる際にそれを車に積んで持ってきていたのだったが、これを利用し、木材や布などを駆使して、天板の大きなビッグこたつ(暖める効果は一人用)を作ったときのことだ。

当時、直前まで夜逃げして家のない状態だったわたしと前夫は、その家なき子状態から抜け出したばかりであった。
わたしはやっと借りた家の凍りつく居間で、コートや手袋を身につけたまま、白い息を吐きながら、木材と格闘して夢中でビッグこたつを作った。

そこから「やった〜!!こんなにデカいこたつになったよ!!早速使おう!!」と誘うまでの間のわたしを、心から呆れたような目で見ながら手伝っていた前夫。なぜか月光だけを頼りにした視界と、仄暗い部屋に完成したビッグこたつ、そのこたつに当たって暖をとりつつも呆れすぎて不機嫌だった前夫、それらのすべてにそぐわない意気揚々としたわたし、このことを今も繰り返し思い出す。
楽しかった。知恵を絞るのも、工夫するのも、何かを創作するのも、ただただ喜びに満ちていた。

なぜこの思い出がこんなにも鮮烈に記憶に焼きついたのか、それが自分にもわからない。
ビッグこたつのように、わたしがコナン君並みの知能で思いついた、数々の家庭内グッドアイデア賞にノミネートされたものはいくつもあって、その度に前夫に呆れられてきたし、それで不機嫌になったのを何度も見たこともあるのに、どうしてあの場面だけがこんなに何度も思い出されるのだろう。

考えられるとしたら、あの頃がわたしの人生において貧しさ極まる時だったということだ。

貧しさは、誰かと一緒に超えると、最高の思い出になりうると思う。貧しさ以外にも、大抵の困難は誰かと一緒に超えたときにグレートメモリーとなる。ところが、独りで超えてもさほど良い思い出にならないものだ。これが鍵なのかも知れない。

独りで何かを耐え抜いて頑張ったことは、わたしにとってただの孤独な記憶だ。けれど、たとえ作業自体は独りでやり抜いたとしても、同じ目的に向かっている同士がいたときのことはとても良い思い出となっているのだ。

わたしはとある会社で営業マンをしたことがあるが、とにかく成績を上げようとひとり努力し、孤独な戦いをした。そしてとても良い営業成績をあげて、売り上げに貢献し、何か賞をもらった。営業マン同士は自分のほうが上になろうと敵対心を持ち合っていた。あの頃のことを思い出しても、ただ、頑張ったな…としか思わない。

けれども、あのビッグこたつのモーメントは、わたしと前夫が貧困という困難に一緒に立ち向かっているときだった。社会的に見れば、営業成績をあげたことのほうが、ビッグこたつよりはるかに褒められようことだと思う。
けれども、わたしにとって人生の幸せな記憶として残り、はるかに輝きを放っているのはあの仄暗い部屋の月明かりの当たるビッグこたつの記憶だ。

わたし達はその完成したビッグこたつに当たって、暖房効果は多少薄まるにしても、大きいこたつの良さが加わった点を考慮すると、元の小さなこたつよりは確実にスペックが高まっているな!!と話して、一緒に笑った。
今後も木材をいろいろに使ってみよう、オモロイもん作ろう、発想は自由だ、芸術は爆発だ、俺たちは天才だ、これから楽しいぞ!そんな話をしていた気がする。

困難を一緒に超えた仲というのは、ものすごい結束を果たすのだろう。それは同時にその一緒の時間の記憶を星のように輝かせ、色褪せない幸福感を人生のフィルムに記録する。

困難+仲間との分かち合い、これが鍵と考えたとき、その時の仲間と分かち合うものは良い場面に限定する必要などないのだとわかる。

困難中は個々の良さも互いに発見し合うけれども、そもそも共有しているのは困難なのだから、弱さダメさもダダ漏れ、超露出だ…
互いにええカッコばかり見せ合った時というのはあまり思い出にならないものなのだろう。
確かに、「できるだけ嘘を重ねて虚飾の姿で接したぜ、うわーやったあー!」という感動があったら変だ。
人って自分には嘘がつけないから、これを誤魔化すことはできないのだ…

これを逆説的に考えてみると、困難を避け、人とつながるのを避け、人に弱点を知られるのを隠していると、人生という夜空に輝く星を描き足すチャンスを失ってしまうのかも知れない。

望むときはいつでも無難よりも困難を選ぶ軽やかな闘志を、独りよりも誰かと分かち合う子供のような大らかさを、長所よりも短所を遊び道具にしてしまう不謹慎さを、成功よりも失敗を笑っちゃうイタズラのような遊び心を、いくつになっても持っていたい。

そうしたら命尽きてこの大好きな星を去るときには、心の幻想に満天の星を見られるのかな。そのとき、その星の中に『生まれてよかった座』がたくさん見つかる人生を作りたい。
人生を遊ぼう!!

今日は大好きな思い出のお話であった。
それではまた、明日!!

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)