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924/1096【質問回答】いつか死ぬと思うと焦る/夫の嘘で信頼関係が壊れる…他

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で924日。

※この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。

924日目。生きる現場。この現実を、つぶさに観察することの奥深さよ。それは”知っていく”ことではない。真っ白なキャンパスにデッサンを描くことなのだ。この現実をどう観るのか。どう解釈し、どう表現して、どんなふうに自分の目に認識させるのか。孤独で勝手な作業。これが世界との接点だと思うと、ああわたしはなんとなんと、ひとりなのだろう。この宇宙空間を泳いでどこまでも渡っていけそうなほど…持て余すほどに、自由だ。

毎日投稿を書いていることに、意味なんかなにもない。パソコンに向かって、筋肉を連動させてひらがなの文字を連ねている。無意味で自由で無味乾燥な、己を嘲笑うかのようなこの真実を発見するとき、自分はこんなにも自分について冷静になれるものなのかと思う。多少は自分のドラマにハマって抜けられない自分でいてあげたいような気がするのに。変な同情。変な甘えだ。

そんなに無意味だとわかっても、それと同時に、「三年間、最後までやり切る!やめるなんてとんでもない!」と、この作業に執拗に意義を見出している自分もいたりしてさ。みなさんにもそういうことがないだろうか。いっぽうでは冷めていて、いっぽうではこだわったりして。

それのどちらかに自分の意見を寄せることで強いポリシーやスタンスを見いだすと楽なのだけれど、それをしないで中庸でいよう!というすすめもある。それもよいのだけれども、その中庸にばかりこだわり出したら、それも一種の極論よね。。。

だからわたしは、そういうのはどうでもいいから、もっと揺蕩うように、揺れながら、「おっしゃがんばろーぜ!」とガッツポーズする日があり、「意味なんてないのに夢中になっとるなあ」と自分を眺めて弛む日あり、それを味わってただ一生懸命に生きるというところにいればいいじゃんな、って思うんです。

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質問回答を楽しんでおります。わたしも勉強になります。ありがとう。

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わたしは以前、食品添加物を摂らないところから始まって、火の通ったものを食べない、石油系商品を使わない、有機栽培か自然栽培のものしか食べない、洗剤やシャンプーを使わない、などなどに極端にこだわって自然派生活をしていた時期がありました。

当時はそれが良いのだと思って張り切って頑張っていました。途中まではとても楽しかったんです。畑で汗を流したり、自然環境のことを考え、自分が自然の一部であることについて大きな気づきを得たりなど、有意義な時間を過ごしました。

けれども、これは精製された白い砂糖が入っている、これは農薬を使っている可能性がある、これは自然界で分解されるのに時間がかかる…と厳しい目でチェックして生きることは、ある意味で世界との戦いでした。もうね、胸が痛んでたまらないのです。動物実験を呪い、自然破壊に涙し、結局は人類なんて生まれなければよかったのにと思い始めるほどでした。そしてある時、自分がそれによって幸せを感じていないことに気がつきました。

それでね、ある時まずは一気に止めてみたんです。マックを食べて、普通のシャンプーを使って、世界に放っていた呪いから開放されて、最高の気分でした。以来、基本的にはとくに気にしないで食べたいものを食べ、使いたいものを使って暮らしています。たとえば家庭では掃除用洗剤や漂白剤は使わない、マーガリンは買ってこない、ノンシリコンシャンプーを使う、研磨剤、フッ化物、ラウリル硫酸塩の入っていない歯磨き粉を使う、砂糖よりははちみつを使うなどなど、自分の好みで楽しく取り組めることだけ、適当にゆるく採用して暮らしています。

わたしはグルテンにアレルギーがあったため、今もグルテンはほとんど摂らないようにしています。大切なのは快適さです。自分がなにを快適だと感じるのかは自分にしかわからないので、自分で決めるのがいちばんです。

神さまはきっと、あなたが幸せかどうかだけを見ているのです。

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死を意識するのって、とても奥深いことだと思います。たしかに死を意識すると、やりたいことをもっとやろうという気持ちになりますよね。そこには共感します。

けれども、限られた時間しかないことを本当に見つめていくと、「どれだけ多くのことをやったのか」を追求しても仕方がないのがわかってきます。有限の時間の中では、やれることは限られてしまいます。なので、そこだけを見て、人生に焦りやダメ出しや虚しさばかりを感じていては本末転倒です。

人生で100の趣味を経験し、100の仕事についた人がいるとします。けれどもその人がもし、それらを浅いところでさらっと撫でただけで、さほどの面白みを見出すことがなかったらどうでしょうか。反対に、たったひとつの趣味と、生涯ひとつの仕事を経験しただけの人が、それらにこの世界の荘厳で美しき面、言葉にならない深遠な生の喜びを見出したとすればどうでしょう。経験というのは、数多くの分野をまたいで経験すればよいというものでもないのですよね。

体調の優れない日にも、やる気の出ない経験やうまくいかない恋愛にも、全力で生きていないという気がしたときの感覚にだって、深き学びやこの世の神秘が隠れています。あなたは日々たくさんの経験を重ねているのです。生きている間に、自分の体験をどんなふうに味わうかのほうがずっと大切なことだと思いますよ。

面白い質問をくださったあなたですから、たとえばコップを持ってみて、それが一体どれだけの条件に支えられて成り立っているのかに思いを馳せたら楽しめるかも知れません。その条件を一言で表すと、この全宇宙なのです。

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夫婦間に信頼関係が必要かどうかは、夫婦ごとに違うと思います。わたしは個人的に、なかったらやっていけません。でもそれはわたしにとって、相手が嘘をつくかどうかという問題ではありません。もしも夫が嘘をついたとしたら、それは愛ゆえに、必要で、わたしのためについた嘘だろうと思います。そうでなくても、大したことではないはずです。土台の信頼は崩れません。だから、嘘ごとき問題ではないのです。

嘘というのは、探さなくては見つかりません。ですから、あなたは彼のことを「絶対に嘘をつく」と決めつけていて、嘘を発見するのは今か今かと待ち構えているのではないですか。

嘘がすぐにバレるということは、周到に準備した嘘なのではなくてあなたを目の前にして咄嗟についている嘘です。本当のことを言えば怒るのがわかっているからついた嘘です。本当のことをあなたが受け入れないのがわかっているから、それでもあなたとの関係を継続したくてついた嘘です。そんなにそれ自体が問題なのでしょうか。それでガラガラと崩れるものを、信頼とは呼びませんよ。それは、嘘を発見しなかった日数の記録が破られただけにすぎません。

もしも嘘の内容が浮気やその他の大きく信頼を崩すものであるとしたら、それでも信頼関係が欲しいと思っているあなたに問題があります。
そうでないのなら、素の自分はあなたに丸ごと愛されはしないと思われているということ。相手の嘘のせいで信頼関係か築けないと考えているようなあなたの愛こそが、彼にとってまだ信頼できないものなのだと思いますよ。

あなたの、「自分が信頼関係があるべきだという考えに囚われすぎているのが原因か?」と考える視点が素晴らしいですね。お互いに愛したいのにすれ違っている部分があるだけだと思います。彼が安い嘘で隠そうとする部分について、一度思いっきり許してどんと構えてみては。

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自分の意外な一面を自ら知ることができるのは、秘行の面白いところのひとつですよね。

気がついている意識というのは、いつだってあります。無我夢中のときには、それを忘れているだけです。ふっと意識を向ければ、ああ今自分は夢中になっているなと感じられます。つまり、そのふっと向ける意識自体が、気がついている意識そのものだということですね。

ここで思索してみてほしいことがあります。気がついている意識に気がついている、とはどういうことでしょう。『気がついている意識』が『気がついている意識自身』に『気がついている』わけですよね。

我は、我に気づいたぞ!ということです。気がついている意識”だけ”になってしまったら、気がついているとわからない。気がついている意識だとわかるときは、気がついていない意識とセットであるということです。仏教で言うところの、空(くう)と、色(しき)はセットなのですね。こうした探求もまた興味深いですよね。今後開催していく予定の、秘行の上級コースで触れていく領域ですよ。

さて、今日はここまで。

それではまた、明日ね。



毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)