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【永遠のテーマ】わたしにとっての「好き」と「愛してる」の違い

みなさんこんにちは。
最近になってまた大きな環境の変化があって、書く気力が徐々に戻ってまいりました。無理をせず、ちょっとずつ執筆活動を再開していきます。

ところでみなさんは、「好き」と「愛してる」との違いって、なんだと思いますか。言葉の意味としては、「好き」というのは、心が惹かれること、気に入ることを指しますよね。「愛してる」というのは、無条件に許し慈しんでいるということです。愛する対象の自由や幸福を、見返りなしに望む気持ちともいえますね。これらは似ているようで非なるものなのですね。

とはいえこの「好き」と「愛してる」というのは、感覚のうえでも、それから表現する際においても、往々にして混同されやすいことだと思うのです。とくに、男女間での「愛してる」は信用ならん!と思いませんか(笑)。「愛してる」と言いながら、自分のお気に入りであって、つまりは単なる「好き」でしかなかったり。それならまだしも、実はよく検証してみると、「好き」ですらないこともあります。独占欲や支配欲でしかなかったり、承認欲を埋めてくれる対象でしかなかったり。かといって、逆にそれらの根本にあったのは愛だったとわかったり…

なんてったって我らは人間だもの、多くの人が己のそんな心と対峙しながら生きていたりしますよね。

この「好き」と「愛してる」の違い。頭の中ではわかっているつもりでも、感覚的にきっぱりとわけられるかというと、ちょっと難しいところがあると思います。私はこのことについて、自分の中でのごちゃごちゃを解いてハッキリと「まったく違うものだ!」と認識してからというもの、ものの見方がよりシンプルになって、さまざまな場面での心の負担が軽くなりました。今日はそのことを書いてみます。

以前の私は、「好き」なものを「愛してる」のだと思っていました。また、「愛してる」ものを「好き」なのだと思っていたため、これらの違いをあまり認識しないまま生きていたのです。みなさんはどうかしら!

その頃はさらに、「愛してる」は「好き」の最上級なのだという感覚でした。イタリア語風に言ってみると、「好き」の最上級の「好きッシモ」が、「愛してる」ということだと思っていたのです。

けれども現在の認識がどうかというと、「好き」と「愛してる」は完全に別物です。「好き」がだんだん「愛してる」に移行することはありますが、その移行の間に感覚に化学変化が起こって、途中から別物になっていることにある時気がついたのです。気づいてからこうして書けるようになるまで、自分を観察するのに何年もかかってしまいました。

ここで面白いのが、「好き」と「愛してる」は別物でありながら、いや別物であるからして、両立することもできるということです。それどころか、「嫌い」と「愛してる」も両立します。両方あってもいいとわかったこと、それらは別物だとわかっていること。これが自分を楽にしてくれました。

どういうことかというと、まず私は『人はこの世のすべてを愛している』のだと思っています。星のことも、知らない人のことも、スマホも、動物も、やったことのない仕事も、経験のないスポーツも、虫たちも、対して興味のないものも…文字通り、認識の出来る対象のなにもかもを。そして、その中に好きなものと嫌いなものとがある、という認識です。私たちは愛しているものを好いていたり、愛しているものを嫌っていたりする。すべてを愛していて、そのうえで自分の都合や五感にとって快適なものを好いていて、都合の悪いものや五感に不快なものを嫌っている、ということです。

愛、という、わたしたちのベースにあるもの。この感覚は、「好き」「惹かれる」「他より大事」「お気に入り」とはまったく違った感覚です。それは、そこにあることを許していて、無条件に改善や向上や統合を願っていて、私達の助けを必要とせずに自立していることを受け入れる感覚。言い換えれば、どうでもいい=「どういう状態だとしても存在を許す」、という感覚だということができます。好みの姿や、好みの匂いや感触や味わいでなくとも、それどころか自分に迷惑になるものですら、私たちは愛し許しています。愛していて、なのに大嫌い!ということもあるということですね。

ここでちょっと喩え話をしてみますね。いきなりなのですが、あなたが実は神さまだとします。
神さまであるあなたは、嫌いなものをこの世から排除することができます。そんなあなたが、パチンコ店の騒音が嫌いだとする。なので、神さまであるあなたは、思い切ってパチンコ店をこの世から排除してしまうことにしました。神であるあなたの決定により、政治が動き世論が動いて、数年後にはとうとうこの世からパチンコ店がなくなりました。

ところで、あなたのご近所には、あなたにいつも優しくしてくれて、ちょっと出かけて帰ってくると、いつもお菓子や果物などをわけてくれるおばあさんがいました。あなたはそのおばあさんが大好きでした。
そのおばあさんが、あなたがパチンコ店を排除してこの世から消してしまってからというもの、ちっとも家から顔を出さなくなってしまったのです。

近所の人に事情を聞いてみると、このおばあさんはパチンコに行くことが好きだったというのです。なぜなら、亡くなったおじいさんとの素敵な思い出だったからなのでした。おじいさんはパチンコが大好きな人で、二人の出会いもパチンコ店でした。だから、毎月のおじいさんの命日には、おじいさんの好きな食べ物を持ってパチンコを打ちに行くのを楽しみにしていたのだそうです。おじいさんと一緒に居るような気持ちにもなれるし、同時におじいさんへの供養にもなると思っていたからです。そして、ちょっとでもお金に得のあった日には、供養の際にたまたま拾った過分な幸運だと考えて、帰りにあなたになにかおすそわけを買ってきてくれていたのです。

けれども、パチンコ店がなくなってしまってからは、おばあさんはすっかり意気消沈して、もう早くあの世のおじいさんのところに行きたい、と願うようになってしまいました。そして、元気をなくしてお出かけをすることもなくなってしまったのです。

さて、この時あなたはどう感じるでしょうか。あなたはもしかしたら、おばあさんに元気をくれるのならパチンコ店をまたこの世に戻してあげたいと思うかも知れません。戻してあげたら、またおばあさんが元気になることがわかっているからです。

さて、このときのあなたにとってのパチンコ店は、どういうものだと言えるでしょうか。「自分は個人的にはあの騒音が嫌いだ。けれども、いつも元気に営業していてほしい存在になってしまった…」と思うかも知れませんね。存在することを丸ごと許し、元気な営業を願っていて、でも嫌い。存在することを願い、かつ嫌っている。愛していても、嫌っている。といえます。

このように、私たちの「好き」や「嫌い」は、その時々のわたしたちの勝手な都合によるものなのです。好き嫌いというのは、私たちのその時の気分、その時の状況にいくらでも左右され、常に変化してしまいます。

ということは、私たちはその対象物を『自分の勝手で好きになったり嫌いになったりしてよいもの』として見なしているということです。これは言い換えると、自分にとって”どう見たって許される存在だ”と思っているということですね。

どう見たっていい。好くことも、嫌うことも、執着することも、無関心になることも許される。どんな自由な思いをも、持つことが許される。どう見ても良い存在だからこそ、まずはじめにジャッジなく存在を丸ごと許し、そのうえで好き嫌いを感じているのです。そこに私たち自身の都合や好みなどが反映されているということですね。なにか対象物を見たときに、そこに自分の一面が立ち現れて見えているのだといえます。

これは、私たちがその対象物を「さまざまな自分の一面を映し出す鏡」として受け入れている、ということができますよね。対象物をとおして見ているのは自分自身だからです。
こうして対象物に己を見ているということは、私たちは認識できるもののすべてを自分として見ているのです。実感を持つのはなかなか難しいかもしれませんが、これは無条件にそれを許し愛しているのと同じなのです。

世界のあらゆるものと私たちとは、互いに無条件に愛し合っているのですね。だからこそ、好いたり嫌ったりできる。互いに勝手を通し合い、許し合っています。

対象を認識する。存在していることを受け入れる。観察する。さらには、どう思っても許される対象であるとみなす。まずここまでこないと、私たちは対象を好いたり嫌ったりするところまで来られない、ということです。存在を許した相手…つまり愛をもって認識した相手にしか、好きだとか嫌いだとかいう反応が起こらないということですね。

プロレスが嫌いな人は、プロレスの存在を許してからプロレスを嫌っています。ピーマンが嫌いな人は、ピーマンの存在を許してからピーマンを嫌っています。犯罪を恐れる人は、犯罪がこの世に存在することを許してから犯罪を恐れています。(感情的な面とは別に、です)

戦争を憎む人は、戦争がこの世に存在することを許してから、憎んでいます。戦争の存在を認識することを自分に許してから、嫌っているともいえます。私もそうです。今の私は、戦争を思うと悲しみや憎しみを感じます。

でもここで即興で喩えてみるならば、いつか長く長く人類史が続いて、私たちの子孫が他の星で暮らしているという未来があるとします。そして、その世界に私が生まれ変わったとします。

その未来では、異星人同士の交流が当たり前のように行われている。そこでさまざまな星の存在が、私たち地球人が昔の戦争によって苦悩を味わったことが大きな警告となって、これまで宇宙の多くの知的生命体がそこから学び、自分たちの文明を救ってきたという史実を伝えてくれました。それにより助かった命がたくさんあったということや、その警告がなければ宇宙の意識体たちには学びが足りなくて、その未来でもまだ戦争をしていたのかもしれない、というのです。

私はこの状況に置かれたとして、その自分が今の自分と同じように、現在の地球上の戦争を憎むことが出来るかどうかは、わかりません。今のように憎しみを一番に感じるのではなくて、「当時は悲しかったけれども、私たち宇宙の生物はこんな風にして学ばなければ、ちゃんとわからなかったのだな。当時の人達よ、ありがとう。当時の悲しい戦争よ、今を救ってくれてありがとう…」という切ない感謝を感じるかもしれません。今は憎い存在が、状況さえ違ったら、都合さえ違ったら、感謝の対象にすらなり得るかもしれないのです。

これは、どんなもので喩えても同じです。たとえば私自身が殺されるような目に遭ったとすると、直後の悲しみや憎しみはそれはそれは激しいものだと思うんです。荒れに荒れて、憎悪に負けて、一旦は地縛霊化すると思います。貞子とマブダチになります。けれども、もしもたとえばそのあとに、「あなたはその昔、今回あなたを殺した人に同じことをしたことがある。だから今度は同じ目に遭うことで逆の立場の経験を学んだ。そしてもう二度と同じことを繰り返さないだろう。あなたはそのひどい経験により成長し、救われもしたのだよ」と仏様に言われたとしたら、自分はそのとき一体なんと思うのでしょう。またやはり勝手に「だったらそれで良かったのかもしれない…」などと思うのかもしれません。「絶対にあってはならないもの」として見えていたことが「それで良かったと言えるもの」に見えてしまうのかもしれない。私たちの好みやジャッジなど、こうしてその時の都合でいくらでも変化してしまうのですね。

私たちはこうして、私たちが認識できるもののすべてを、どんなふうに見ても良い対象として認めています。どんな勝手な味付けも出来る無味無臭の存在として、無償に存在を許している。たとえ戦争ですらも存在することを許していて、その許しへの見返りなど望んでいないのです。これは私たちの倫理観とは別に、広義な意味での「愛」と言い換えることができてしまうのですね。

そしてあとは、その時々の都合や感覚によって、私たちはその対象物を好いたり嫌ったりしています。存在を許し愛していて、あとは勝手に好きにも嫌いにもなれる。「愛」と「好き嫌い」というのは、これほどまでに違った性質のものだと言うことが出来るのではないでしょうか。

そう気がついてから、自分はどんなものをも愛していて、どんなものからも愛されていて、そして好きも嫌いもまさしく己の勝手な都合でしかないのだな、と思うようになりました。このように、私たちの好き嫌いというのは、誰にも押し付けることのできない、この上なく個人的で一時的な感覚のことなのです。地球人皆がそうしていろんなものを勝手に好いたり嫌ったりしていて、それは個々にとっての真に孤独な活動なのだと思ってみると、なんだか愛しく憐れな感じがして、しかしどこか「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的な感覚を覚えるのは私だけでしょうか…笑

誰かがなにを好きでも嫌いでも、その人にとってはその場ではつじつまの合ったことだし、さらには一時的なことなのだから、特段こだわることでもないのですね。自分の好き嫌いだって、そのようなものなのです。こちらの勝手。一時の気の迷い。前世の経験の影響。こちらの現在の都合。「気のせい」みたいなこと。そういう性質のことなのですね。

そう考えると、好きだという感覚を持つのは趣味娯楽みたいなものですよね。今の自分にとって都合が合っていて、好んでやっていること。
私は絵を描くのが好きですが、他の人に「だから君もお絵描きを好きになりたまえ」と言うのはおかしなことですよね。これと同じで、私は私を好きなのだが、それはいわば自分の個人的な趣味なので、あなたもアタシを好きになんなさいよ!と言うのはなんだか変なことでもあります。

だから、たとえば好きな異性に本当の正直な気持ちを告白するとしたら、
「私はあなたのことを宇宙のすべてと同じように愛しているのだけれど、さらにあなたは今の私にとってものすごく心地よくてI need youでI want youなんです。つまり私は、あなたへの執着が非常に強いんですね。もちろんそれは、我が魂にとって一時的なものではあるのだけれども…」となってしまうかもしれない。すんごい変なやつじゃないかよ…!笑

さらに、誰かに愛を懇願しなくても、すでになにもかもが互いに存在を許し許され、無償に愛し愛されていたんだな…と思うようにもなりました。この世はなんだかすごいところだな、とも思いました。

この感覚に目覚めてからは、好き、と言われて嬉しくてもそれをキープしたいという感覚が薄くなり、嫌い、と言われてもそれを覆したいという感覚が薄くなりました。その薄さ、半紙のよう…笑。以前は週刊少年ジャンプくらい厚かったのに。だってねぇ…私を好きでも嫌いでも、それは相手の環境と経験と都合に合ったことなのだし、それにいつか別のときに会ったら、もう変化しているかもしれないのだし…!つまりは好きも嫌いもコロコロ変わるもので、相手の本質などではないのです。この世は諸行無常なり…

でもたったこれだけの認識の違いで、嫌われる勇気などなくても嫌われることに強いこだわりがなくなったり、好かれることに対する喜び大フィーバーも起こらなくなって、以前の自分に比べぐっと落ち着いたのがわかるようになりました。

自分は特に、肝の据わっていない、すぐに状況にあたふたする、人の機嫌をうかがう、環境に左右されやすい…という大変脆弱な精神の持ち主であったため、「どんなものもこの世のベースは愛だと言えるなあ!その上、好き嫌いもその相手の環境や経験などの都合による一時的なものなんだから、気にしなくて大丈夫じゃないか!なにをあんなにビビっていたのだろう!」と思えたことは、自分にとって非常に気を楽にしてくれたことでした。

というわけで、今日は「好き」と「愛してる」との違いを己の中でハッキリさせると、なんだか楽になっちゃうかもよ~というお話でした。願わくば、どなたかの思索の参考となりますように。
それでは、またね❤みんな、愛してるよ~!

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)