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696/1096 悩みは、”見下せ”。

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で696日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

696日目。696ぅ~!ろくろといえばそう、ろくろ首の日である!(嘘
ああ最近こうして、思ったことは何でも書くようになってしまっている。

きっと、だんだん気が大きくなってきているのが理由だと思う。

わたしもコロナ前はオフラインのイベントなどでたまに「アンチにどう対応してるんですか」「嫌なメッセージとか大変じゃないですか」みたいなことを訊かれることがあったのだけれど、そういうときに思い出すのだ。そういえば、そういうものが一度もないままここまで来てしまっていることを。

いや、一度もなかった気がわたしはしているけれど、どうなのかがよくわからない。もしかしたらこれまでそういうメッセージやらコメントやらが送られてきていたのかも知れないが、読んでもわたしが嫌味などに気がついていない可能性も大いにある。そして今後も気がつくことができる自信がない…

(アンチです!嫌いです!と書かれないと、そうとわからないからさ…)

年に一度くらい、はああ~~??なんか変な人だなあ??と思うようなコメントがあったり、どこぞで人気の誰かに名指しでシェアされて、あーだこーだ(俺のほうがわかってるし。この人より理解してるし。的な寝言ね)言われたこともあったけれども、そういうのをアンチだとか批判だとはカウントすらしていなくて、「この人ダサいなあ」と思ったことだけ覚えているが、もう内容すら思い出すことができない…

鋼の精神をもつというよりも、そもそもそれ系の神経が通っていないのだと思う。なんというか、こちらと自分を比べてあーのこーの言う人、ただ虫の居所が悪いだけの人、ただ勝手に傷ついた人のことは、「なんかこの人大変そうだな案件」としてしか認識できていないと思う。

今日まで書いてこられたのは、そんな自分の原始人的なところも助けとなっていたからかも知れないな。いつの間に変わったのだろう。わたしは批判が怖くて臆病だったし、すごく繊細だったはずなのに。

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みなさんには、悩みというものがあるだろうか。

わたしが貧血性のウツになったときには、まずとにかく悲しかった。悲しみが先にあるため、悩みとしてああでこうでと説明できるようなものではなく、ただ自分が哀れに思えるという感覚だった。ウツにかかっているかもしれないと思う人には適切な対処が必要だと思う。ちなみにわたしは鉄欠乏性貧血だったため、鉄を補充することで回復した。

上の”悩み”というのはそれとは別の、”これがわたしの悩み”だと感じていて、ある程度の時間”悩みポジション”をキープしているもので、なぜ悩みであるのかをきっちり説明できるようなもののこと。

ちなみにわたしには、ないのだ…長いことない。
”悩み”だとしっかりとレッテルを貼ったものはなくて、悪くても”障害物”みたいな認識をもったものしかない。

なにかに悩む人は多いが、わたしはそれを「どうやって解決するか」ということよりもまず、それがどんなことだとしても「これがわたしの”悩み”です」というレッテルを貼ってしまうことがそもそも問題なのだと思う。

わたしは、悩みというレッテルを貼っているものというのは、100%「くだらない」と思っている。その”悩み”というレッテルが間違いなのだと思う。

”悩み”というレッテル自体が、その人が負けを認めていて、その人にとっての逃げ道で、都合のいい言い訳で、本気で解決に取り組んでおらず、諦めるべきところを諦めておらず、手を離すべきところを握ったままでいて、つまりは解決しないほうが都合が良かったりすることだったり、その人が避けているところがあるのを表しているのだと思う。

こんなふうに文にしてみるとすごく冷たい感じに見えるのだけれども、言い換えればその悩みは、悩みだと思わなくさえなれば、それで吹き飛ばせるものであるということ。フフフ嬉しいことではないか!

悩みである以上、100%くだらない。
くだらなくない悩みなどない。
実のある悩みなどない。
悩みというポジションを与えたものはすべてくだらない。

わたしたちが自分の苦悩に対してこう思ってみようとすると、または悩んでいる人にそう言ってみると、自分やその人から千も万も言い訳が出てくる。

いや!!でも、お金がないんです!でも、時間がないんです!でも、相手が悪いんです!でも病気なんです、でも取り戻せないことなんです、でもわたしは頑張ったんです、でも、でも、でも、でも、、、、

それが真にどうにもならないことなのであれば、じゃあ仕方ないよね。ということだ。なぜ悩むのか。どうにかなりそうだから、悩むのではないのか。

「悩みである以上、必ずくだらない」というのがわたしの持論だけれど、これは厳しいのではなくて自分に一番甘い考え方を採用したに過ぎないのだ。
悩むのは辛い…自分に「停滞していいよ」と言っているようなものだと思う。

だからなにか問題に見えるものが現れても、これは”悩み”だと思わずに、最悪でも”障害物”だと思ってしまうのが好きだ。

それは例えば、鍵が壊れてしまったというときに、それを”悩み”だとは思わないのと同じように。鍵が壊れたのなら、鍵を交換すればいい。鍵を交換するお金や技術ががないのだとすると、働くとか、貯金を下ろすとか、自分が交換できるようになるとか、できる人に頼むとか、どうにもならなきゃ諦めるとか、やれることはあるはず。”悩み”としてキープしてしまうとしたら、どこかに盲目になっているのだと思う。

鍵が壊れてしまった…今これを何とかするお金はない…自分でもやれない…貯金は崩したくない、誰かに頭を下げるのも嫌だ、自分で学ぶのも嫌だ、諦めるのも辛い、これは悩みだ…と考えるのは、その判断のうち、どこかが間違っていますよ~という合図だ。
「鍵が壊れてるのが悩みですね〜」て!!おかしいぞ!!なんかおかしいだろう?!

悩んでいるというのは、自分がその障害物に対してずっとイライラ・モヤモヤしているということだ。それは、できることが見えていないか、見えていてもやっていないということ。現状を動かすどれかの方法に対して、不要な偏見(執着)を持っているがために、「これはないわ」と当たり前のように却下しているものがある。あまりに当たり前のこととして却下しているから、見えなくなってしまったりやれなくなってしまったりしている、なにかがあるのだ!

わたしが問題に当たるときは、いつもそう。必ず自分になにか不要なこだわりがあるとき、または、自分のまさかの可能性を信じていないとき。

さすがにそういう仕事はできないし…とか、さすがにこの人には頼めないし…とか、さすがにそういう実力はないし…とか、さすがにそれは怖いし…とか、さすがにそれじゃ幸せとは言えないし…とかいうことを思っているがため、そこで滞ってしまっている。そういうときはイヤんなっちゃうくらい、必ず自分に原因がある。

例えば「夫がどうしても習慣を変えてくれないんです…」という悩みを持っている人も、相手を変えようとしている時点で間違っていて、自分こそが頑固で、自分こそが変わりたくない、変われないと思っていたりする。

どうしても嫌なら別居でも離婚でもすればいい。ほら、解決方法は目の前にあるじゃないか!!もしそれが怖かったり嫌だったりするのなら、それは”悩み”だとは言えない。それはあなたの”選択”であり、あなたの”こだわり”だ。

生活費が心配なら働けばいい。働く時間がないのなら家でできる仕事に挑戦すればいい。それもできないorやりたくないorうまくいかないのなら、相手の習慣について諦めて、自分こそがそれを気にするという”習慣”を変えて、笑顔でいればいい。

諦めるのも笑顔でいるのも無理なら、自分の考えかたを変えればいい。相手を変えるのではなくて、自分の考えかたを変えればいい。その習慣を持った相手と一緒にいるメリットの方に目を向ければいい。それも無理なら、その習慣を持った人のそばにいる方を選んだ自分を恨めばいい。相手ではなくて自分を恨めばいい。自分を恨んで呆れきると、きっと気持ちも行動も選択も変わってくる。

いや、わたしは変われません!相手が悪いので、わたしは変わりたくありません!という人は、その「変わりたくない」という頑固さを相手が鏡のように見せてくれているのだと心底思ってみるべきなのだと思う。嫌なものからは逃げる。どうしたって叶わないものは諦める。そういうことができないでいる頑固者は自分なのではないのだろうか。

だから、そう考えてみると、”悩み”ってなんだろう。

”解決できません”という、レッテルを貼ったもの。
”なんだかんだ言っても現状に甘んじています”という、甘えポイント。
”これを諦めたら不幸です”という、すでに持っている幸せへの低評価。

総じて、
◯実の実は解決したくないもの
◯悩みとしておくほうが自分を安定させるもの
◯人のせいにしているもの

なので、悩みなんて、”悩み”と呼んだ時点で100%くだらないとわたしは思う。あなたはそんなものを”悩み”として持っていなくてはならないような存在などではないから、「くだらない」と思う。

ぜひ信じてみてほしい。悩みがある人に試してほしいのだ。とにもかくにも、その自分の悩みを「くだらない」とだけ思えたら、もうその時点でその障害物はあなたを飲み込むことはできなくなる。見下すこと。下に見てバカにすること。「お前なんかただのちょっとした障害物だよ?こちらを支配できるほど強大な闇だと思ってた?ツツツ…うぬぼれんなよ?」と言ってみること。そのために、ちょっとハッタリを演じてでも(重要)、強気になるのがポイントだ。

「わたしはねえ、奇跡の存在なんだよ。この完璧な宇宙の存在に生まれた、人類という究極の生命体のうちの、唯一無二の型なんだよ。わたしと同じDNAを持った存在は、他に2つと存在しないの。今生きているということは、その人類の歴史の最先端にいるんだよ。氷河期を超え、火のない時代を生き抜き、何万年も続いている人間の歴史の生き残りの血統書付きの子孫であり、ひとつの宇宙を司っている、神に似せられて作られた、原材料:愛100%である、人類に必要な型として生まれ出た、宇宙のすべてに波及する影響を持った、とてつもない生物なんだよ。だからねえ、あんたみたいな悩みごときがダメにできるような存在じゃないんだよ。なめんなよオイ??」

と、言わなくちゃダメなのだ。「壇珠さん何言ってるんですか?人の悩みってそれぞれに重いものなんです!くだらないなんて言ったら、その人に失礼だと思います!」みたいな反論をされたら、わたしは脳内でそれを「なんかこの人大変そうだな案件」として処理するだけだから構わないけれど、そんなことを言ったらその人は自分自身に失礼だと思ったほうがいい。あなたはそんなもんじゃないんだぞ?!?!

その悩み、ほんとうにあなた以上のものですか。
生きているあなた以上のものですか。
生きた人間という究極の体験をしているあなたという存在を、超えるだけのものですか。そのあなたに比べてしまうと、くだらないものではないですか。マジでさ、胸に手を当てて訊いてみて。

そこにちょっとでも違和感を覚えたら、その感覚が突破口なんですよ。
言っているでしょうその違和感が。いや、そりゃ本当の本当はわたしのほうが強いんだけどさ、って。ただ、今負けちゃってるだけだけどさ、って。

そのか細い本質の感覚を頼りに、悩みに言ってやってください、「お前なんか大したことねえんだよ。そのうちこっちがフッてやるから。一生アタシといられると思ったら大間違いだからね?アタシがいて、アタシが選んでやらなきゃ存在すらできないってこと、忘れんじゃないわよ。バーカバーカ」と。馴染むまで繰り返し言うんです。それは”悩み”なんかじゃない。あなたを超えないもの。あなたに見切られたら、それで終わっちゃう存在です。

というわけで今日は、悩みなんて、先に”悩み”のレッテルを剥がして見下してしまおうという、わたしの好きな考え方のシェアでございました。
悩める人よ、愛してるぜ!!

それではまた、明日ね。

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