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967/1096【質問回答】オリジナルの発信をするには/パートーナーとどうしても譲れないことでぶつかったら

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で967日。
※この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。

967日目。わたしのいる環境は、雨ばかりの日々はネットのつながりも悪くなって、地味にダメージが蓄積しやすい。こういうときには好きなものに存分に触れていい気分をキープしている。

わたしはオタク気質だから、二次元のものや妄想の世界に、一喜一憂して楽しんでいられる。だからこれを利用して、どんよりした時間を楽しく過ごすのだ。フッフ…幸せだ。

人は表現の時間をもったり、自分の想像力を行使して楽しむ時間をもつと、とても心が豊かになってくる。それは地球人の人生においてとても大切な要素だ。

自分を愛するというとき、なにをしたらいいのかわからない人がいるのだけれど、自分から湧くもの、自分の表現を自分で楽しみ、喜んで、面白がってみると良い。表現するというのは、ある意味で、自分に湧いてきたものを素材として、それを使って料理をするようなものだ。そうすると、良い点がいくつもあるのである。

まずは、新しく得た素材を腐らせない。
その素材を使うと、その料理が味わえる。
新しい食材を得られる。(しかも想定外)
繰り返すと、さらに新鮮なものを得られ、もっと楽に料理の恩恵が得られ、さらにはだんだん料理が上手になる。

意識体というのはこんなふうに、感覚を表現するとさらに感覚が豊かになるようにできている。出ていったものを味わい、その食材が成仏すると新しいものを得る。すると自然と現在抱えているものが流れていって、新しい現実と出会っていく。

自分の中で、古い自分が死んで、新しい自分が生まれる。この新陳代謝が滞らないようにするためにも、自分を表現していこう。そのためには、電車に乗ることさえも、自分の表現であることを思い出す。自分でやっている。自分で自分を表している。そこにあなたが現れているのだ。

いつだって自分を表現して生きていることを思い出して、そこに意識をおいて生活する。これが自分を大切にする大きなヒントになりますよ。

わたしも、ここで毎日表現するようになって967日目。
1000日目の香りが、耳が遠くのお囃子を心地よく聴きとっているかのように感じられる。まだちょっと、距離がある。
でもそれは確実に、こちらに向かっている。

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今日はこちらの二つのご質問への回答です。

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必要なものは、これを質問したい気持ちを相手にしないこと、です。笑
ちょっと意地悪みたいになってしまいましたが、誰に刺さらなくてもいいのいいの。まずは、自分に刺さることを表現してみましょう。

わたしだって、オリジナルのものなんてなにもないのです。日本語からして自分で考えたものではなく、多くの人と同じように、先人の知恵や知識を借りて使っています。そのいただきものを自分なりに扱ううちに、感じたり気がついたことを発信しているだけなのですね。

わたしは、発信するときに、まずは自分が嬉しくていい気分になることだけに集中してきました。それはたとえば、なにかスポーツなどを練習するときと同じなのだと思います。今日も素振り頑張ったぜー!とか、今日もいい球打ったぜー!と思えるようにやっていく。

未熟でもなんでもいいので、うおっしゃー今回もいい練習をしたぜ!!と思えるようにするんです。「今日の俺の練習を見た人の胸に刺さったかな」「俺の打球の仕方、オリジナルかなあ」みたいなことは置いておいて、どんどん打ち込みましょう。

始めのうちは、なにやっているんだろう、超絶無駄な気がする…という思いで心折れそうになるときもあると思います。わたしもさんざん陥りました。それでも、今日も俺なりにやれることはやった、あの内角を巻き込んで打てたのはすっげー気持ちよかった!!みたいな思いが少しでも湧くようにやっていけばいい。

そうして打つうちにいつの間にか、そのスイングフォームは独特でオリジナルのものになっているのです。

だから、気にしないでいこう。がんばってみてね!

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変えがたい思想があるのなら、それを変えようとしなくて良いと思います。相手も自分も、それぞれ別のことを信じているままで良いのではないでしょうか。強要を受けても、変えられないものもありますよね。

わたしは「どちらかに合わせなくては一緒にいられない」という考えを持っていません。また、それと同時に「どうしても譲れないところがあるのなら、離れればいい」とも思っています。

質問文を読むかぎりでは、質問者さまが「どちらかが折れなくてはならない場面があるはずだ」という前提をもって質問をされているように思います。けれどもわたしはそう思わないままにここまできてしまいました。

折れないままで一緒にいてもいいし、折れないためになら離れてもいい、と思っていられるととても楽です。すると意外と、主張が違おうが歴史的に根付いた文化や家のしきたりなどで培った考え方が違おうが、趣味が合わなかろうが食の好みが違おうが、とくに折れることに苦しまずに仲良く過ごすことも可能だと思います。

そしてまた逆に、ぶつかる度に「どちらかいっぽうが折れるべきだ」と感じるような間柄なのであれば、実のところはもう、心の奥ではさほど一緒にいたい相手なのではないと思います。

人と人が本当に互いに好きで尊重しあって一緒にいるというとき、その者たちの間には”折れる”という感覚はなく、「相手を思うがゆえの学び」「柔軟に合わせる喜び」「心から嬉しい譲り合い」があるものだと思います。それが嬉しく楽しいのです。

例えばですが、自分が仏教徒、相手がキリスト教徒なのだとします。相手はキリストの復活祭を祝いたいとします。こちらはとくに復活祭に意味を見出すことができないので、祝う必要がないとします。ここで、もしも「我が家では復活祭を祝うのか祝わないのか」というところでぶつかったら、「2つに1つなんだから、どちらかが折れるしかない」となってしまいます。

けれどもここで、「そうか、お釈迦さまはここで、宗教上の行事を重んじるかどうかということに対する一切の執着をなくすという仏の修行をさせてくれているということかァ」と考えて、あくまでも仏教の修行の一環としてキリスト教の行事を学んだり楽しんだりすればいいのですよね。このときこちらは、仏教徒として少しも”折れて”などいないのです。

こんなふうに考えられるときというのは、やはり「あちらが折れるべきだ」というちょっと攻撃的な気持ちや「じゃあ自分が折れるしかない」というちょっと被害者的な気持ちではなく、「どちらも折れずにいるためにどうすればいいかな」という愛ある心で考えているときですよね。

それがあると、折れる折れないに観点が囚われる前に『心地よくいるために折れずに一緒にいたり別々にいたりすること』を視野に入れられます。

なので、逆に言えば頻繁に「どちらかが折れなくては一緒にいられない」と考え始めたときというのは、関係そのものを見直して見るときなのだと思いますよ。

さて、今日はここまで。
それではまた、明日ね。


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