見出し画像

204/1096 ダメ「だから」愛せる

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で204日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

204日目、なぜか204という数字に204号室、というイメージが湧く。なんとなく怖いイメージが浮かぶのはなぜだろう。どこかで204号室が舞台となった怪談でも読んだのだろうか。

毎日投稿を書いていて、夜中になっても終わっていないことが多い。それで、日本の午前中に間に合わせて更新したいがためにひとりで部屋にこもってせっせと書いていると、となりのキッチンからどうも奇妙な音がしてくる。テーブルの上のガラスのコップをスーッとずらす音や、ドアをコン!と叩く音、なにかをテーブルや棚の上から落としたような音。

わ、なんだ?!と思うのだけれど、それでも気にしないで書いていると、音がだんだん大胆になる。何かが居る気がしてならないけれど、居るとしたらそれは少なくとも生きている人ではないのだから、非常に興味深い。

わたしは元々お化け屋敷も苦手だったしひどい怖がりだったから、今のように夜中の暗い家で自分の部屋にひとりでいるときにおかしなものを感じてもそのままでいられるなんて、自分でかなり意外だ。

今日は夕方から書き始めているのだけど、夜に差し掛かったらまたなにか起こるだろうか。毎日投稿を書く上での、ちょっとハラハラした楽しみだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今日は自己受容について書いてみようと思う!時間は夜の8時。これから書くとしたら終わるのは夜中になる可能性がある。何が来るかな、何が来るかな・・・・

いきなり禅問答のような展開になってしまうのだけど、自己受容の最大のポイントは「自己受容できない自分」を受容する、ということなのだと思う。

わたしは自分についてしょーもないなあと思うことがいくつもある。けれど、しょーもないなあ、と思ったまま、そんな自分を大切にしている。
そのひとつひとつの「しょーもないなあ」を「しょーもなくないし」に変えたとて、自分を否定しているかぎり、ダメ出しというのは無限に出てきてしまう。勝ち目のない闘いだ。

自己受容を深めたい、という人にとって「でも自分を否定してしまう」ということと戦っているときというのは、いわゆる『逆境』にあるのと同じことだと思う。(逆境というのはとても良いサインで、わたしたちにとても良いことになる前触れ、予兆だ)

逆境に強い人のひとつの特徴として、現実的オプティミストであるということがわかっている。オプティミストというのは楽観主義者のことだけれど、現実的オプティミストは、逆境にあるときに意外にもポジティブなことよりもまずネガティブに目を向けるのだそう。そして、そこだけにフォーカスせずに、可能性のないことは切り捨てて相手にせず、可能性のあることを徹底的に解決する、という態度をとる。これが逆境を切り抜けるのに役立っているのだそうだ。

これに自己受容をあてはめて考えてみると、自分の「しょーもない」をひとつひとつ改善していくことは勝ち目のない闘いなので、それは可能性のないこととして切り捨ててもよいということ。「しょーもないなあ!」「ああ~自分のこれが駄目だわ!」と思ったままでええねんということだ・・・!
可能性があるのは、そう思ったままで自分を受け入れること、だけだ・・

だから冒頭で書いた自己受容の究極の矛盾であるとおり、「わしゃ自己受容なんかできんくてもいい!このままでいい!」で、いい、ということ。そう言っている人と出会ったら、「フッ・・それを自己受容っていうのさ・・」と言ってあげよう!(フッ、はつけてもつけなくても)

わたしのダメ出しの数ときたら大変なものだ。

わたしはボケている。(玄関にすべて置いて出ていく
わたしは怠惰だ。(今日も洗濯すんの忘れた・・・
わたしは肌が綺麗じゃない。(ブラマヨ吉田さん方面に進んでる
わたしは公共交通機関をミスなしに使えない。(考え事をした瞬間アウト
わたしは髪がボサボサだ。(あとなんか禿げてきたし

駄目だキリがない。これらをなんとかして変えるために、

いつもキレッキレに冴えていて忘れ物なし、移動が超得意、肌もツルピカ、サラサラヘアでふっくらした身体、になろうとするのには、恐ろしく厳しい努力が伴うだろう。
それだけ努力しても不可能で無駄なうえ、それを仮に達成したとしたらそれはもうもはや、わたしではない。禿げてきていないとわたしじゃないってのも、これもまたなんとも言えない気分だが、しかも、これらを越えても次々にダメ出しは続くのだ。
以下1万字ほど追加して自分へのすべてのダメ出しを書いてみてもいいけれど、それらの克服は終わらぬ闘いである。虚しい戦争だ・・・

その戦いは、一体どんな勝利を目指しているのだろう。最後は完璧な人間になることだろうか。そのために一生の時間で足りるのだろうか。そもそもわたしたちは、自分をなにかのものさしに当てて形を変え、いらんところは潰し、理想通りに作り変えるために生まれてきたのだろうか・・・・・
そうやって理想通りになったとしても、そこには自己受容の安心感など伴わないのだ。条件付きの合格感であり、何かがちょっとでも失われたら、即座に不合格になってしまう緊張感に満ちている。
そのストレスと、そのストレスに使っている膨大なエネルギーよ・・・・!

わたしが三日坊主を越えてみたかったのはもちろんダメ出しがあったからだけれど、これはとても楽しいチャレンジだ。また三日坊主に戻ったとしたら自分にダメ出しするだろう。でも、だからといって自分を大切に思う気持ちになにも影響はない。だからこれは、条件のないものなのだ。

喧嘩して帰ってきたら、お前はまた喧嘩なんかしたんか!と言いながら、怪我を心配して手当してくれてあったかいご飯を出してくれる、その不良息子とおふくろの一人二役である。その安心感、プライスレス・・・・・

これがわたしには「ただ自分を見つめていること」で起こった。
見ていると、わたしはモサモサ頭でホコリを集めていたり、忘れ物に気づいて黙って歩いて戻っていたり、電車を間違って途方に暮れて寒いホームでじっとしていたり、しゃがんで皮のむけた指で洗濯物を絞ったりしていた。自分の日常は、そういう、普段の自分には駄目にしか思えない、改善したかった、変えて消してしまいたかった自分にあふれていた。

でも外側から見ていたら、それらのシーンは、わたしが自分で長所だと自負している「手先の器用さ」を発揮して何かを縫っているときや、タイマーを見なくてもちょうどい時間でパスタを茹でられるのを活かして料理をしているところと同じように見えた。どちらも変わりなく、いや、むしろ欠点だと思っている自分の要素のほうが、マジで愛しく見えた。理性ではしょーもないところだとわかっているけれど、そんな状態で今日まで生きてきたこと、今もそれを抱えて生きていること、そんなことがぜんぶ、ものすごく「お前・・・!!お前・・・がんばってんな・・」と思えることだった。

だから、ダメだと思えるところはむしろ自己受容の唯一最大の助けなのだ。ダメだから愛しさがわかるのだ。ダメだから自己受容ができないのではなく、ダメだから、できるのだ。サイボーグのように完璧だったら、どのようにして自分自身に慈悲慈愛を感じるのだろう。

わたしはこの変容を通して、誰しもが苦にあることを苦もなく認めた。「人のことを可哀想だと思うな」と当たり前のようによく言われるけれど、それは誰か特定の人について見下すなという意味で、あるいは自分がいないと駄目だと考えて互いのポテンシャルを狭めるなという意味なのだろう。

わたしは、万人が平等にそもそも苦の中にあると思っている。これはそう考えることにしているのではなくて、自分の感覚だ。マジで大変じゃん、三次元で地球上で哺乳類で知的生命体だと。もうそこが苦である。寒いし暑いし。腹減るし。飲まない食わないと死ぬし。いろんな人がいてあれこれドラマが起こるし、しまいに死んでまうし。

言葉に語弊があるけれど、わたしは、どんな人のことも100%ハッピーだとは思わない。そんなわけがないのさ!!どこかで、悔しさや寂しさややるせなさを味わっているものだ。悲しみを内包せずに生きている人、切ない場面に遭遇しない人などいない。人生は、そんなものでもなければ、そんなふうにするべきものでもないはずだ。
完璧にハッピー気分、いつもキラキラ、ネガティブなんてひとつもない、というわけにはいかない。だから、そうじゃなくていいのだ。

わたしはここ地球を、本当に最高の場所だと思う・・・超美しくて、しがねえことばっかりで、奇跡のように愛しい、世知辛ぇ世の中。だからここで生きる誰にも、すごいねとごめんねと可愛いねと可哀想だったねと強いねとこれからも大丈夫でよかったねと幸あれの混ざった気持ちを、どこかに持って接してしまう。これはなんと、味わい深い感覚だろう・・・!!
その感覚が、他の誰かにも、自分自身にも、同じようにある。そうなってはじめて、他者と自分との間に自分が持っていた境界線がゆらいだ。そこからたくさんの気づきがあって、その幻想が解け始めた。みんな同じじゃないか、おんなじだったや・・・と思ってから、頑なだった自意識にヒビが入って、なにかが変わったのだ。

自己受容に限らず、ここ10年以上の間に重なった、こうした気付きのひとつひとつを書き留めてきて、それを丁寧にワークに変換して誰にでも扱えるようにしたこと、今それを伝えられることを本当に嬉しく思っている。

今日も生きているわたしたちへ、生きている貴重な時間の中にいるわたしたちへ、優しい慈悲を。生きていて、すごいね・・・

今日は自己受容について勝手をずらずらと書いてみた。
似たような記事をつい量産してしまうけれど、自分は本当にこの話題が大好きだなあ・・読んでくださった方と、なにかが響き合いますように。

そう、今日のわたしたちの使命は、生きること、である。
また明日、互いにそれを達成して、ここで会えますように。

それではまた、明日ね~~~!!
(は!今は夜の12時半。そういえば、今日は変な音がしなかった。。今日はゆうれいさん、お休みなのかな?w

【初夏の特殊なワークショップのお知らせ】

『あがり症克服のための1DAYワークショップ』と
『響き合う恋をする・恋愛1DAYワークショップ』が募集開始となりました。

『あがり症克服のための1DAYワークショップ』

あがり症を持つ方のための、あがり症克服に特化した日帰りのワークショップです。わたし自身がどんなに場数を踏んでも抑えようとしても治らなかったひどいあがり症を克服したある方法を、ワークに落とし込んだもの。
このワークショップでは、あがりを抑えようとせずに自然に中和し鎮める方法を伝授します。あがり症を克服したい方に、ぜひとも知ってもらいたいと思っています。人数限定ですので、お申込みはお早めに。当日がとても楽しみです。

『響き合う恋をする・恋愛1DAYワークショップ』

こちらは幸せな恋愛や夫婦関係のためのワークショップですが、根本には自分自身と恋をすること、目の前の人と響き合うこと、本当の自分で誰かと関わることをワークを通して体験するものです。
ワークはとても楽しめるものでありながら奥深い体験につながっています。こちらも、ピンと来た方にぜひ体験してほしいものです。

【九宮秘行のワークショップ、募集が始まっています】

人生を限りなく透明な目で見通し、本来の自分のあり方を取り戻す九宮秘行のワークショップ。今夏の受講生の募集が始まりました。

清蓮さんとわたしの直接指導のワークショップで、師範養成を行います。
どなたでも、師範クラスのワークを終えることで師範代のライセンスを取得でき、わたしたちとワークショップ開催時に指導に当たって活躍することができます。

自分の本質を知り、枠を超えて人生を歩みたい人へ。
自分の可能性を探求し、本来の望みを体現しましょう!

九宮秘行(きゅうきゅうひぎょう)とは、人間の「九つの進化の段階」を探求する9日間のワークショップ。「自分」という枠を超越するプロセスを体験します。見、観、空観のクラスを終えたあとの師範クラスを終了すると、師範代のライセンスが取得でき、九宮秘行講師(壇珠と清蓮)主催の九宮秘行ワークショップ内で共に指導に当たることができます。 師範代の経験を積み一定のレベルに達した人には師範としての免許皆伝となります。

道家茅山上清派や様々な流派の数々の秘儀秘術の本格的な修行を経験してこられた清蓮さんとわたしとで一緒に「身体・意識」それぞれの面から練りあげたワークを、ひとつひとつ進んでいただきます。ご自身の探求とともに、人間の可能性に驚く純粋な体験のできる場です。
どなたでもゼロから参加できます。一緒に九宮秘行を伝えていきませんか。

・瞳の純粋さを思い出す
・人生に遊び心を取り戻す
・自分で自分に贈り物を与えられるようになる
・人前で安心して存在できるようになる
・深い呼吸のできる体になる
・自分自身や他者、 世界についての思い込みから自由になる
・生きている間に魂存在としての自分を思い出す
・ひとつのものが全てであって、全てがひとつであるという感覚を体験する
・神通力を開く

などの効果が期待できます!ワクワクした方は、ぜひ!!詳しくは九宮秘行のホームページをご覧ください。

【一緒に自分の枠を超えましょう!夏のイベントのお知らせ】

身体のアルケミストであり、多くの求道者たちへの指導経験を持つ清蓮くんとの『枠を越えて』いくためのトークライブ&ワーク伝授を行います。

その名も、『秘行×神聖幾何調身法』
〜ワクワクが枠枠になっていないかい?〜

2時間のトークライブのあと、1時間のワーク伝授があります。

早期割引(4月30日まで)を適用しています。
みなさまに実際にお目にかかれるのを楽しみにしています。
 
お申込みはこちら↓
(お申込みが増え、大きな会場に変更することとなりました!(東京都内を予定しています)ありがとうございます!!まだお申込できます!)

twitterでもぜひつながってね!


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)