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543/1096【往復書簡】デーモン欲が止まらない

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で543日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

543日目、今日はスーパーも開くのを禁じられて、静まり返った日。イタリアのほかに、スペイン、レバノン、チェコ、フランス、イスラエル、ベネズエラ、ベルギーの8か国に外出禁止措置が敷かれ、約2億4000万人が外出を禁じられている(必需品を買うためや医療機関の受診や外出の必要な仕事のために出ることを除く)。

これを機にさまざまなことが見直されることとなると思うのだけれど、そのうちのひとつがインターネットに対する見方ではないかと思う。我が家でも、家に閉じこもることとなって否が応でも実感されるのはインターネットの利便性だった。娘は学校の授業を受けることができ、友だちと通信して交流することができ、わたしたちも外の様子を知ることができて大きな心の支えとなっている。イタリアにもまだまだ、子どもにスマホやパソコンなどのデバイスをとおしてネットを利用することへの理解が行き届いておらず、高齢者のコンピュータ嫌悪もあるのだけれど、それが良いほうにアップデートされるような予感に満ちている。世界はもっと繋がる!しかも目に見えないところから!そんな気がしてならない。

今日はネットを使える喜びに打ち震えながら書こう!勝手な予感に勝手に燃えて、喜びを先取りして書こう!喜びの先物取引だ!

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上の圭吾さんの記事へのお返事です。

我ら、地球の鬼ヤンマ!!この前、読者の方から「毎回楽しく拝読していますが、いいねボタンを押すと周囲の人に『おまえはこんなのが好きなのか』と狂人扱いされるから押せない」というお声をいただきました。私たちってなんなんでしょう。クレヨンしんちゃんとか、おぼっちゃまくんとか、親がこどもに見せたくないテレビ番組みたいなものだと思いました。早いとこ、国民的人気を獲得しましょう!!市民権を、得ましょう!!

我ら、地球の鬼ヤンマ!!で盛大に吹きました。鬼ヤンマ!!ああ、なんと気分の良いマインドセット(!)でしょう!
それにしても、いいねのみで狂人扱いとは!ふだんから平然とリアクションをくださる人たちはある意味で猛者なのですね。親が子どもに見せたくないテレビ番組、というところにも大声が出ました。自分が危険物扱いされるのは嬉しいことです。圭吾さんのおかげでこうして危険物扱いを受ける機会が増えて幸せです、ありがとうございます!!!俺が先に狂ってるのを出すからみんなも安心して狂ってくれ!というこの己の真心を出すことに、ビビらずにいたいです!!

わたしが今日まで毎日ブログを書いていて気がついたのは、優しくてほっこりするような癒やされる記事にはいいねがつきやすいということです。ヒーリングの必要な人がとても多いのだと感じます。そしてそのことに言葉にならないマグマを感じてきているところでした。それは大切だ!でもきっとそれだけじゃない!逆撫でされたり狂人を見ることで活性化されることもきっとあるのではないのか!という思いです。自分は見るだけでほっこりとできる赤とんぼにはなれなかったので、スズメバチすら捕食するという鬼ヤンマの方向でいきたいと思います!

私が自身最速150キロの球を投げても「まだまだこんなもんじゃねえだろ!!」と、毎回200キロの豪速球で返球をしてくれます。そればかりか、私がどれだけ暴投をしても「俺が全部受け止める」と、時にはピッコロ大魔王のように腕を50メートルくらい伸ばして私の悪送球をキャッチしてくれます。もはや人間ではないので、私も人間でいる限り勝てません。結果、バケモノになるしかない。このやりとりが、本当に、最高です。

これ、わたしも完全に同じように感じています。うぉりゃあーこれがワシの変人球じゃあー!という思いで投げて、受け止めてくださる。ならばこの狂人球はどうじゃあー!という思いで投げても受け止めてくださるので、だんだん投げる方に巨大なミットが存在しているようなイメージになり、もはや真後ろに投げても拾ってもらえるだろうという感覚になっています。『ほんとうのキャッチボールとは、相手が取りやすい球を投げることじゃない。投げたい球を投げあって、互いのミットの大きさを無限大にしていく遊びだったのだ』と思います。その都度自分の出せる最強の球を投げるからこそ、相手がキャッチしたことが突き抜けるほど嬉しく、返ってきた遠慮のない球を自分がキャッチできることが喜びになるのだと思います。

片方はファンが離れているのに、もう片方は「ファンが、もっとファンになっている」のです。この現象を見たとき、けいご坊や(私)は悟りました。ああ、そうか。俺はえがちゃん的な生き方をする必要があるのだなあ、と。~中略~何かしらの事情で牢獄にぶち込まれたとしても、周囲から「あいつなら仕方ない」と、悲しまれたり同情されたり下に見られたりする以上に「笑いのネタとしてお楽しみいただける」程度には、器のでかい人間になりたいと言うことです。伝わっているでしょうか・・・不安になってきた・・・このままだと俺の社会的信頼が危うい・・・でもそんなもの最初からないか・・・!!

伝わっています、伝わっています!!それに、ひとりにしやしませんぜ。わたしもえがちゃん方向に舵を切っていきたいと願う小市民のひとりであります。思えば自分はそのために生きていると言い換えてもいいのかもしれないと思いました。わたしは土木工事を生業としているころ、寅壱のニッカポッカとセメントのはねまくった地下足袋を履き、片耳に赤鉛筆、片耳にタバコを挟んでコンビニで大きな弁当を買って外で食べながら、人々の平静を装いつつ放たれる奇異の目を眺めていて、ああ素晴らしき哉、人生!と思いました。いつも、笑いそうになるのを我慢していました。わたしは勝手に一人で幸せで、それはなににも侵されないものなのだと思いました。だから、あんなときに自分一人ではなくて他の人にも笑ってもらえるようになりたいと思います。ああ、自分はまだまだだなあ!!

よく、自分には本音を出せる相手がいないなどと言う人と出会うのですが、私は問いたい。何を選んでいるのだと。何を待っているのだと。まず、自分からだろと。

わたしもよく「どうすれば本音を出せるようになりますか」「本音を出したいのですが、受け止めてもらうにはどうすればいいですか」ということを聞かれます。きっとプロのカウンセラーさんなどに聞けば有用な返答が得られるのだと思いますが、わたしがその真似をしても仕方がないので、ここでまとめてわたしなりのお返事すると、「出すっきゃねえ」です。「出すしかないと思います」ではなく、出すっきゃねえ、です。この言い回しでしか言えません。

出せそうだな、受け止めてもらえそうだなと思う相手に出したって、本音を出した感がないだろうと思うんです。これは絶対にまずい、というシーンでやらなければ、出したと思えないんじゃないのかい?と。出せそうな相手に出したって「あっわたしと同じ感覚っぽい人見つけたから平気そう」というだけのことで、本音を出してみたいという欲求の解消にはならないはずだと思うんです。りんごが嫌いな人が、りんごが嫌いそうな人に対してりんごが嫌いだと言っても「だよねだよねー」となるだけですよね。そうじゃなくてりんごが大好きな人達といるときに「わたしはりんごが嫌いです」と言えたときに「本音出したったー!!」と思えるのだと思います。だから、「本音を出してみたいのですがどうやればいいですか」というご相談には、「まずは受け入れてもらえそうにないと思える相手に標的を絞りましょう」が的確なアドバイスなのだと思ってしまいます。自分は狂人なうえに意地悪です。でも、この世にはとんちのような逆さの答えがいっぱい眠っているのだと思います。俗識、当然と思われている常識というのは、それらを掘り当てる面白さのためにわざわざあるのかもしれませんね!

今日の出版記念ライブで、男性のお客さんが「正直、あなたの本を読んで悔しいと思いました」と言いました。私は「お、いいぞ!いいぞ!どんどん悔しがってください!」と答えました。俺を恨めとさえ思いました。俺を恨んで、俺を憎んで、俺を妬んで、そして、這い上がってきてください。そんなことを思ってしまったのです。

世には『嫌われる勇気』という素晴らしき本がありますが(わたしは未読です)、我々の心にはそれどころか『嫌われる喜び』というものが確実に存在すると思います。わたしはあるとき「壇珠さんが怖いからあまり絡めないと言われている」と知ったときに、腹の底から笑いが起こったことがあります。
わたしのなにかに対して、相容れない、理解不能、軽蔑する、刺されそう、などと感じられたのだと思うのですが、恐れを感じられるものってきっと、その人の真実とつながっているのだと思います。それが嬉しかったです。

クラブでホステスをしていたころ、極妻風の白い着物に銀の帯を締めて人の多い通りの真ん中を歩いたときに、多くの人がサササ・・と目も合わせずに左右に道を開けてくれて、ミニ・モーゼの十戒が再現されるのを目の当たりにしたことがあります。そのときにも、厄介そうだから離れておこうと距離を置かれたことが、クスクス笑っちゃうくらい面白かったです。なんというか、怖いとかウザいとか嫌いだと感じるものには、その人が実は欲しいものがあるのだと思います。実は自分も持っていて、実は発揮してみちゃいたいなにかなのだと思うんです。みんなでいっせいに「自分も厄介でーす」と言っているように見えました。たとえ軽蔑の眼差しだとしても、誰かの刺激になていることが嬉しかったです。わたしの幼稚なところだと思います。でも、誰かをなにかを嫌う心があったら、その人は実は面白い冒険の地図を持っているということだと思います。その暴君の部分を使うと、なにかおもしろい魔法が起こるのだと思います!!

本を手売りする機会に恵まれたのですが、お釣りをもっていなかったことと、定価で売ることの退屈さを感じた結果「言い値でいいです」というやり方を、今回採用しました。~中略~更に素敵だなと思ったのは、本を買う列が発生したのですが、二冊を4000円で買おうとした女性に「その値段なら三冊行けます」と言ったところ、その女性が「それなら、私の後ろにいる女性に一冊プレゼントします!」などとおっしゃるではありませんか!!なんということでしょう!!

坂爪圭吾の真骨頂だと思いました。ここを読んで、当たり前だと思っている取引のルールをぶっ壊すと、実は我々に眠っている「おままごとの精神」が引き出され、そこから「仏さま」が引き出されるのだと思いました。わたしたちがシリアスに守ろうとしていたルールを破ると、そこに「じゃあ今はこういうこと(仮)にしちゃおっか!」という、おままごとの精神がポロッと出てきます。Aちゃんはお母さんね、Bちゃんはお父さんね、わたしは子どもね、そういうこと(仮)で遊ぼう!という、勝手な設定。ただ面白さのためだけに、常識にとらわれないで好きに決めちゃう場。その、「自由にしていいんなら世界を好き勝手に見ちゃおうぜ!」という遊び心をもって心が解放されると、ついポロッといい気分になりたくなって、ついポロッと仏が出ちゃうのだと思いました。仏心は、この世を楽しんで解放されているときにこそ顔を出すのかもしれませんね!

最初、言い値で売りますと言ったときは、周囲の人から「こいつの頭は大丈夫か」「何を馬鹿な真似を」「血迷ったか」みたいなまなざしで見られました。

こういうときに、他者の目に、自分に向けられた恐れや軽蔑を見て嬉しくなっちゃうことって圭吾さんにはありますか。わたしは上にも書きましたが、なんかウキウキしてしまって、こういうときにデーモン閣下のような笑い声を出してしまいそうになります。しまいそう、というかしまいます。貴様もカオスの波に飲まれるが良い!!ぐあはははー!!みたいに思ってしまうんです。自分の歪みゆえのことかもしれませんが、理解できます~、わかります~、と言われるよりもはるかに嬉しいんです。人のことも自分のこともわかったような気になるな!とか、解られてたまるか~!とか、貴様の勝手に作って入ったカテゴリに俺を入れて安心材料に使うんじゃねえ弱虫め!貴様はそんなもんじゃねえはずだ!などと思ってしまうからです。ああこうしてどんどん嫌われるのでしょうね、それが怖いくせにやっぱりデーモン欲が抑えられずに書いてしまいました。公開が恐ろしいです。

この「最悪、怒られるだけ」というのは、私の中の安心ポイントです。怒られたら謝ればいいのであり、別になにかを諦める理由にはならない。だから、やっちゃえ。合言葉は「ギリギリ怒られよう」くらいが、ちょうどいいのかもしれません。

ありがとうございます!!わたしは報われ、救いを感じています!!わたしも家や庭を造っているころ、工事の方法がわからないと駐車場に不法侵入してなんとかして学ぶということをしていましたが、このときに最悪でも不審者として通報されるだけだ、大丈夫だ・・と自分に言い聞かせていました。心臓が飛び出しそうになりながら、不審者というステータスを自分に許した瞬間でした。しかしそれにもあっという間に慣れはじめ、駐車場からドア周りの構造などをじっくり見ているようになったりと、だんだん図々しくなっていきました。そこから、なにかといえば最悪でも〇〇にしかならない、という発想に至るまでの迷いが消え、節操がなくなり、犯罪者の強みを手に入れました。これまでわたしは面の皮が厚くなったことで乗り越えられてきたことがたくさんあるのですが、これを人に勧めてみたかったので読んでとても嬉しかったです!犯罪者の強み・・今回も書いていて自分の恐れと対面しています。この部分を消さずにアップできたら自分を褒めたいと思います!

なにもかもなくしたとしても、また同じ夕日を見ることができる。そのことを思った時、涙が出そうになるほどの『大丈夫』を感じ取りました。

ここに、ただ無言のうちに深い深い同意を示したかったのですが、我慢できずに取り上げてしまいました。わたしがそれまでの生活を根底からなくしたときに、「ああ、陽は相変わらず昇るんだなあ・・・」と思ったことがあります。なにもないと思えても、なくしたものは小さく、変わらず陽に当たることができるのだと思うと、なあんだ。この世は終わらないんだな。自分は生きてるんだな。と思い、どうしようもないほどに、悔しいくらいに大丈夫だったんだと思えました。自分の予測なんて裏切っちまえばいい。そんなものはこれほどの大丈夫を揺るがしもしない。そんな気持ちになりました。わたしはとてつもない環境にいて、ただとてつもない大丈夫の中にいながらにしてワタワタしてたんだなと思って、悲しくも嬉しくもない、ちっぽけすぎる事実と壮大すぎる事実に完敗した脱力の涙が出ました。でっかい手のひらの上で、槍を持ってワーワーしてるんです。そんな自分に、バーカバーカ!といって泣きながら笑いたいような思いもありました。きっと、圭吾さんの感じたものと、どこか根本的に似たものだったのではないかと思いました。

壇珠さんは、小さな頃はいたずら好きなこどもでしたか??

あちきはイタズラ好きな子どもでありやんしたよ。たとえばデパートに行くと、レジ横の袋詰めのための台にあるセロハンテープをいくつもちぎって、外側の全面が粘着するように丸くして、大人の身体に気付かれないようにくっつけることに全精力を傾けていました。プロの域にいったと思います。
わたしは圭吾さんもご存知のように、自宅で普段から抜き足差し足で気配を消すことにチャレンジしていますが、子どもの頃からすでにこの手のことが好きでした。今も「してはいけない」と思うことほどしてみたくなってしまい、夫が眠っていると本人の使用済み靴下を鼻先に持っていって臭気で起きるかどうかを実験したりしてしまいます。神よ許したもう。

みんな、どこで大人になるのでしょうね。わたしには自分がいつまで経っても変わらずにずっと子供のままだと感じられます。だからつい、みなの心もきっとそうなのだと思ってしまいます。魂は年を取らず、性別もなく、国境もなく、どんな人も子供のころに世界を観察していたのと同じ目を死ぬまでずっと持っているのだと。人は人を信用できなくとも、憎んでも、嫌っても、その観察の目だけは信じられるし嫌えないし憎めないのだと思います。そうだろうアモーレ!そうだと言ってくれ!と汗だくで思っています。

そこを使って触れ合える関係は、正しいとか立派だとかすごいとか素晴らしいとかいうものよりもずっと、「面白い」のほうが好きだと思い出させてくれるのだとわたしも思います!!圭吾さんがそうして遊んでくれることを、わたしも最強に嬉しく思っています。いいねの少ない狂人書簡ですが、読者さんのその観察の目のほうにはきっと面白くうつっていると願うばかりです!こちらこそありがとうございます!!

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