見出し画像

716/1096 幸せはあなたからやってくる

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で716日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

716日目、悩ましき快晴の土曜日。海に行ける今年最後のチャンスかも知れない。朝からパッと出かけて気兼ねなく一日の時間を使って家族で遊びたいのだけれど、この毎日投稿があってそうもいかない。わたしたちが今日楽しめるかどうかは、わたしがこの毎日投稿をどれくらい早く仕上げられるかにかかっている。こうして暮らして、約2年になろうとしている。

それもあって、どれだけ早く書くことができるのかが、わたしにとってこれまでずっと重要なことだった。今日も早書きにチャレンジしている。これにより、毎日毎日アドリブ力を試されている。

毎日継続するために必要なのは、毎日書くこと。それだけだ…それは、毎日書けばいい。今はそれよりも、たとえばこのアドリブ力を三年間鍛えたらどうなるのだろうというような、毎日更新の副産物が気になっている。

それが楽しみだから、今日も急ごう!
さあさあ書け書け~~!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

わたしは仕事柄、どなたかのご相談を受ける事が多いのだけれど、「外側の現象が変わってくれなければ幸せになれない」という思いから起こるすべてのお悩みについてのご相談に、わたしがお答えするときに大切にしているコアとなる部分について書いてみようと思います!

「外側の現象が変わってくれなければ幸せになれない」というのは、たとえば「結婚できなければ幸せになれない」「お金が得られなくては幸せになれない」「誰かが優しくしてくれなければ幸せになれない」というように、現実が先に変わってくれなくては幸福感を得られないという感覚のことです。

仏教用語に無明という言葉があります。
無明(むみょう)とは、無知、迷いのある状態のこと。真理に暗く、智慧の光が届いていない状態のこと。

わたしは、わたしたちが悟りの状態になくとも、真理を心留めることができると思うのです。そのあいだ、それを目指し、それを常に心において生きることは、言葉がアレですが非常に便利です。無明のままでも、とりあえずは真理を知恵として知るだけでも、悩みへのアプローチを変えることができますよね。

では、「外側の現象が変わってくれなければ幸せになれない」という感覚に対してどんな知恵を持てばよいのかということですが、それは「じぶんの放ったものが自分の受け取るもの」という真理です。

言い換えると、「自分が今体験している現実は、自分の意識が先に創り出したもの」ということ。さらに言い換えるのなら「じぶんの現実は自分自身が映し出された鏡である」ということ。外側が変わるから自分が変わるのではないのですね。自分が変わるから外側が変わるのです。

ちなみにわたしがこれを初めて知った時の感想は、「そんな…なんてこった…あまりにとんでもなさすぎる…こんなこと知ったからとて、どうすりゃいいの、どう生きりゃいいの!!」でした。だって、それまで生きる間ずっと持っていたモノの見方がまったくひっくり返ってしまうことだったからです。「もうとんでもなさすぎて、今世で消化できる気がしないんだが!!」と思いました。もういい、グレてやると思いました。

「無理だ…無理だよ…あまりに受け止めきれないよ…」という思いが先行しました。精神世界のことを学んで、これほど「なんだよそれ!!感」を感じたことってありませんでした。

その当時貧しかったわたしは、ほんじゃお金がないのも自分のせい、人が思い通りにならないのも自分のせい、人間関係が難しいのも、仕事が難しいのも、社会に適応できないのも、自分がこんなに愚かなのも、ぜんぶ自分のせいなんかい…という思いに囚われました。対応できない、耐えられない、とてもじゃないが受け止めきれない。精神世界のことを学ぶ前よりもさらに迷いが増して、大混乱のグッシャグシャ。焼け野原に立たされました。

やってらんねぇし!!という思いと、自分が悪いのなら自分をなんとかしなくては!!という思いとが繰り返し交互にやってくる。外側のせいにしていた自分が、いかに弱かったのかを知りました。知らなければよかったと思ったことも、この腹に落ちずに自分を苦しめるだけの知識を捨てて記憶喪失になりたいとも思いました。

でもどうしても、捨てられなかった。なにを読んでも、なにを調べても、この真理が突きつけられます。苦しみから逃れようとすればするほど、この真理が立ちはだかる。これが取っ掛かりなら、これを追うしかないのだと思いました。捨ててもまた外側のせいにする毎日がやってくるだけなのを知ってしまったら、そこにはもう戻れなくなってしまったのです。

一時は「お釈迦様ー助けておくれよー」と毎日思っていました。「宇宙人でもいいからわたしに悟りを授けておくれよー頼むよーひっくり返らないんだよー」「神さま、天使たち、なにやってるだーここで俺がこんなに苦しんどるぞー」と夜空に向かって無駄に話しかけたりなんかする、だいぶイカれた人になりました。

でも、お釈迦様も宇宙人も神さまも天使も、しらーっとお返事なしです。そのことすらも自分の鏡かよ!!と頭をかきむしりながら、見るべきはとにかく、目の前に展開されている自分の現実でした。これが鏡なのだとしたら、ここにじぶんの全部が現れてるってことだ。これしか手がかりがない。これしか足がかりがない。わたしはジェラード警部に追われながら、真犯人を追い求めるリチャード・キンブルなのだ!!

とりあえずわたしは、現実を虱潰しに見ることにしました。お金がない、それはわたしのせい。どこかにお金に関するブロックがある、それを消せばどうにかなる…人間関係がうまくいかない、それはわたしのせい。どこかに低い自己評価がある、それを消せばどうにかなる…というように。

そしてあるとき気が付きました。
は??は??あれ??現実は自分を写した鏡なのだよな??そしたらじゃあ、もう現実は「テストの答案用紙が戻ってきた」ようなものではないのか?と。これは”結果”ってことよねん??と。

「え…じゃあそこに一喜一憂していることがそもそもおかしいのじゃないの??」と思いました。外側はもちろんのこと参考になるのだけれど、外側を変えるために頑張ることがそもそもおかしいのだと思ったのです。

なぜなら、わたしの心が「外側を変えるために必死こいて苦しんでいる」ことがそのまま鏡に写ってしまうのだから。そこにはすごい矛盾があって、「自分が変わらなければ、外側も変わらない」という真理を知って苦しんでいたのでは、現実に映し出されるのはその苦しみだということ。どっちにしろ苦しんでいたわたしは、それを知る前と同じことをしていたのです。

この気付きによって、わたしの努力は崩壊しました。なにしてたんだああああああああ!!なんっっっっっっっにもわかってねえじゃねえかあああ!!と思いました。全身の力が抜けて、泣き笑いました。馬鹿な自分、愚かな自分、いつまでも無明な自分。真犯人は自分でした。

「なんっっもわかってないよ!!先に幸せにならなきゃ、幸せなんて映らないんだよ。先に自分が笑わなきゃ、鏡に笑顔は映らないんだよ!!わかるか自分よ!!わかるだろ!!いやわっかんねえだろうなあ!!それでさ、いいんだよわからなくて!!そこに悩むってことじゃない。わからないままでいいから、笑えってことなんだよ!!」と思いました。なんかもう、シンプルすぎて自分がアホすぎて、心壊れ、情けなくて、嬉しくてぶっ飛びました。

わかるってそういうことでした。考えてやることじゃない。笑うのです、先に。幸福だと思っちゃうのです、先に。難しくても、先に。そのために無理をして、そのために現実に対する見方を無理矢理にでもむぎゅーーーーーんと変えちゃうことなのです。

たとえば「金が無い→辛い」(矢印に入るのは”当然ながら”)を、「金が無い→だからなんじゃ?幸せじゃん」に変えるために、その→に入れる値を無理やりにでも変えることだったんです。そのためにできることを血眼で見るようになりました。

金が無い(→=そりゃ当然ながら)辛い、じゃねえ。金が無い(→=おかげで廃材で家具を作る楽しみを得たぞ)(野菜の皮だけで料理するの面白いし!)(夫と半分こにしてなにかを食べる幸せよ!)辛いだけじゃないじゃん!!というように。もうね、ものによってはクッソ難しいです。わたしにとっては難しかった。でも、真理って、知りさえすればこの視点の変換を起こすことを心がけてやり始められるのです。

そうして金を得る前に笑う。嫌な人間関係がよくなる前に、その状況を笑う。その状況を捨ててもいいし離れてもいいし、笑うためになんでもするのです。自分の人生の裁判官は自分なのだから、それに幸せ認定の判子を押してしまう。不幸の条件なんか、ぜんぜん自分を侵害できるものじゃなかったんだって思(っちま)うのです。自分を「不幸にしている条件」認定しているものを「アタシを不幸にするにはそれじゃ役不足だったわね~ホホホ」認定してしまう。「バカじゃん巧妙かよ。騙されるかよ」って。「残念でした~俺には別の幸せがあるもんね~」って。「いじめっ子は反応しなければ諦めるっしょ」って。

ときには強気になって、ときには思い切り都合よく見方を変えて、図々しく、残酷に、自分を憐れんでウジウジメソメソしている自分の甘えも、あいつが悪いんだと人のせいにする楽な甘えも、振り返らず振り切って置き去りにしてまで。

そうするうちに、それが自然だったとわかる。それが楽だったとわかる。先に笑えば、鏡の中の自分も笑うのがわかってくる。三次元の時間差を置いて、まさにその順番で現実が作られているのだと思えるようになってくる。これはね、自分でやるしかないのです。わたしも、このプロセスを経ずにはそこに目が覚めませんでした。

でも、ちょっとズッコケ(古)ますが、目が覚めようと覚めまいと、実はそれはそんなに重要なことではないのです。なぜなら、その前もその後もやっていることは変わらないから。

わたしたちは、現実が自分に対処していることを知りながら、その中で起こってくることに微笑んで生きることが自分を楽にするのだと悟りながら生きるしかない。自分が怒れば自分が怒りを体験します。自分が笑えば自分が笑いを体験します。そうやって、現実を創って生きている。そのようにして自分で決めて体験しながら生きていく以外に、ないのだから。

それをようやく受け入れたときには、わたしは自分を笑顔にすることは単に体験を選んでいる以上でも以下でもないのだということを知りました。
笑顔もいい、泣き顔もいい。怒った顔も、困った顔も。映る顔は結果です。その結果がなんであれ、それを見て慌ててコントロールしようとせずとも、わたしたちはなにを創り出そうとも幸せでしかないのだと知りました。先に幸せがあるのです。幸せは、創り出さずともすでに"在る”のです。コントロールを捨てれば、あ、あった!と思えるところに。

わたしたちのすべてに染み渡って、この世を創る材料として、わたしたちの思いさえあれば苦の幻想の材料になもなるほど自由に、そこに在ります。言い換えれば、わたしたちが”在れば”幸せなのです。ただ究極的にシンプルすぎて見えていても見えていないだけで、わたしたちは幸せだから苦を味わうことができ、わたしたちは苦を敷いたところにしかそれを見いだせないものなのですよね。(その、幸が苦と表裏一体であることがこの世の苦です)

なにもしなくても幸せなのだと知るあなたは、鏡に写ったあなたが泣いていても、どんな外側の条件が満たされなくても、それにかかずらうことなく幸福です。それを知ろうと、知るまいと、です。

このことに目覚めたいという人は、まずは知識として「わたしたちが見ている現実というのは自分の創りだしたものの具現化である」ということを知るのをわたしは良き旅の始まりだと思います。

それをいつもいつも心がけてモノを見さえすれば、良いだけなのですね。そこから生み出される葛藤は、人それぞれその人相当のものですが、それ以上の先生はいません。なぜならそこにわたしたちの「くっそ~~変えたいぜ~~」という思いを刺激するもの、その人の無明が完璧に現れるからです。

なにかを変えたいと思う人、それによって幸せになろうと思う人が、どうかぞの無明をガソリンとして使えますように。それは最高の燃料です。エンジンは「現実は自分を写した鏡である」という真理ね。そしてハンドルもブレーキもアクセルも、あなたが操作するのです。

そしてあわよくば、人生の楽しみのひとつとして、燃料をガンガン燃やして迷いの壁を破って「すべて自分が創っているなんて、なんて自由なんだ!」という気づきと出会えますように。

というわけで今日は、「外側を変えて幸せになりたい」というお悩みへのわたしの経験と好きなアプローチのシェアでございました。どなたかの探求のヒントとなりますように。

【オフィシャルサイトです】

オンライン個人セッションや、オンラインサロンのご案内ほか、さまざまな情報がチェックできます!ぜひ見に来てね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)