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481/1096 誰かの秘密を許す

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で481日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

481日目、今日は、まだ自分がこの毎日投稿の前半にいることに不思議な感覚を覚えた。ああ、自分は今ちょうど、前半部分の自分を経験中なのですね!という、時空を超えた他者目線のような!

だからなにというわけではないのだけれど、そこにそれ以上のなにかとか、それを説明できるなにかとか、理論とか証拠とかいろいろを持ち出さないで、ただそのままでいてみようと思った。

そんな感覚のまま書いたら、それが記事に反映されるのかな。
それともいつもの、ひたすら長文を書くのが好きな人の記事、になるかな。
後者の可能性が色濃いなあ~(笑)
ま、いいのいいの。徒然なるままに、思いつきを書こう!

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わたしがときどきセッションなどでいただく質問に、

「ご主人さまとわかりあえなくていい」と思っているそうですが、どうすればそう思えるようになりますか。

というものがある。そう聞かれると、そのお方がそう思いたいと感じたというところにとても深いものを感じて、感動してしまう。

わたしは、「わかりあえなくていい」と言うよりも、正確には「わかり合うのは不可能だ」と思っている。わかり合っている、と確認する方法があるのならいいのだけど!

わたしにとってそれは、「不可能なこと」という認識になっている。わたしなりに素直に純粋にまっすぐに考えてみると、どうしてもインポッシブルなミッション(トム・クルーズが好きなんだ・・)なのだ。

話し合いをして、互いに納得があった、合意があった、合点がいった、と思うことはある。でも、彼がなにを考えなにを感じているのか、わたしには死ぬまで、いや、、死んでも!わからないと思っている。

もちろんこれは一方通行なことではなくて、つまりはわたしの感じていることも彼にはわかり得ないことだと思っているから、「わかってほしい」という望みがあったのが、まるではるか遠い前世のことのようなのだ。

これまで何度か書いてきていることだけれど、今日また改めて、わたしたちは他者のことを知り得ないという自分の感覚について書いてみようと思う。これは、若かりし頃のわたしにとって、受け入れるのがとてもとても難しかったこと。

それなのに、自分で気るかなかったほど自然に、いつの間にか受け入れていたこと。そして、わたしのこれまでの人生で体験できた気付きのうち、自分を最もリラックスさせてくれたもののうちのひとつだ。

若かりしころ、わたしは好きな人のことをすべて知りたいと思っていた。

思っていることも、感じていることも、今していることもこれまでしていたことも、見ている景色も、弱音も愚痴もみっともない姿も、なにもかもぜんぶぜ~んぶすべて。うんちもおしっこもぜんぶ!!(笑)

その感覚を素敵なものだと思う。知られてよかった。そして同時に、その無茶な望みを、純粋で稚拙な恋心だったと思う。これが叶わないことによる身を切るような狂気の切なさこそが、恋の最高の醍醐味だとも。
ねえロミオ、あなたはどうしてロミオなの!!みたいなね。どういう質問?!どうしろ言うねん(笑)

今になってみると、その「わたしにはすべてを見せて!」という望みがどんなに自分と相手をきつく縛っていたのか、どんなに互いを苦しめていたのかがよくわかる。

なぜなら、まずは単純に「できないこと」なのだもの。相手がどれほど、「これで本音を言ったから。これで全部だから。これが本当だから。どんな情けないところも見せたから」と言っても、「ほら、俺泣いてるし、情けない告白したし、これがすべてだから」と言ってくれても、わたしには永遠にそれがほんとうなのかを確認しようがないことだから。疑おうと思えば永遠に疑えることだ。さらに、人は常に変化し続けるものだし、本人にだって自分の本音なんてわかっていないことがほとんどだから。

つまりそれは、こちらが自分の中で終わらせないかぎり、ずっと終わらないジレンマなのだ。諸行無常の響きあり・・・涙

それを持つかぎり、相手が本音を隠しているのではないかということを、常に疑い、常に監視するようになる。監視するほうもされるほうも、ただただ息苦しいのだ。恋の苦しみ、恋の良さ。愚かで美しい、清さと見紛うほど純粋な、潔いくらいに身勝手な狂気だ。

彼がなにかを思っている顔をしている。
あまり元気のない顔。
今なに考えてるの?と聞く。
ん?なんでもないよ。と彼が言う。それから、わたしにそれ以上の追求をしても無駄だと悟らせる、透明なドアを閉めるような優しい笑顔。
わたしはそれだけで、狂おしいほどに切なかった。
どうして言ってくれないの、どんなことだって聞きたいのに!!
それがどんな内容だって、聞いても気持ちは変わらないのに!!・・・

わたしたちはなんでもわかり合えるよ、なにも隠し合わない最高のリラックスと最高の信頼関係が、どこかにあるはずだよ!わたしたちならやれるよ!と思っていた。それが幻なのだということに、心のどこかが気がついていて、頭ではまったく気がついていなかった。気がついていても、受け入れられなくて否定していたのだと思う。

人には、他者にはうかがい知れない秘密がある。
それは、誰にも。

詮索できない領域があって、明かしたくないこともあって、本人にだって言葉にできない領域のこともある。人は誰しもミステリアスだ。いつでも、誰でも、誰かのファンタジーになることができる。誰かの冒険になることができる。徳川埋蔵金のように(もうちょっとロマンチックな喩えはないのか!)、永遠の謎になることができる。解き明かすことのできない謎に、終わりのないロマンスになることができる。

わたしたちがどんなに言葉を尽くして語っても、テレパシーを使って映像を送りあったとしても、わたしたちの感覚はその本人にしかわからない。

あれほど苦悩したことだからこんなにあっさりと認めるのは自分が可哀想なくらいだけれど(笑)、誰かのぜんぶを知るということは、不可能なのだ。ぜんぶどころか、たったひとつのことも。知った、と思うとそれは幻で、どこまでもどこまでも、こちらが「これは本音のはず」と納得できただけ、というところを出ない。

これは、わたしたちが自分であるかぎり、生きているかぎり、どうにもならないことだ。

嫌だった。それが心底嫌だった。そのために一緒に死んじゃいたいくらい嫌だった。エコエコアザラクを唱えちゃいそうなくらい、第二の阿部定事件を起こしちゃいそうなくらい嫌だった。

他者は、自分のものにはならない。それを受け入れることに心底憧れているくせに、受け入れたら死ぬと思っていた。相手も心を開いてくれたら究極のロマンチックな絆が生まれて、奇跡の相思相愛(サビ抜きならぬ秘密抜き)が起こるのだろうと思っていた。

わたしが相手に求めていたのは、ずっと恋心醒めない男女の間柄であってほしいということと、すべてを見せ合いすべてを解りあうということ。
でも、それらはちょうどアクセルとブレーキを一緒に踏んでいるのと同じことだと気がついた。わたしは彼のカウンセラーやお母さんや男兄弟のようになりたがり、かつ、男女の関係でありたがっていた。

わたしは、彼が弱さも情けない姿も、おむつの中身を見せるように見せてくれて、かつわたしにとって男性であることを保ってくれることを求めていたのだ。

でも、男性にとって、それらは正反対のことだろうと思う。それができないというのが彼の自然な本音であるのに、その本音を受け入れていなかった。「見せたくないところがある、隠したいことがある、永遠に知られたくないところがある」というのが彼の本音だったのだろう。それなのにわたしは自分の満足のために、相手の「秘密を持つ」という自由を許していなかった。

それは彼がわたしに、わたしが女友達や妹や母と一緒にいるときのような姿を見せて、かつ、彼の前でいつも女性として存在してくれと願っているのと同じだ。土台無理な話である。

わたしはずるくて、自分のことはいつもキレイで素敵だと思っていてほしかった。なのに、彼にはみっともないところを見せて欲しいと願っていたのだ。それが少しも叶ったことはなく、わたしはその恋を失った。辛い失恋だった。

それから月日は流れて、わたしは自分が夫に見せない姿があることを当たり前だと思うようになった。だって、ねえ?(笑)それがダメだなんて、普通に怖い。

自分が「他者のことを知り得ない」ということを楽しむようになったら、夫のことを永遠に知り得ないということをそのまんまに受け入れていた自分に気がついた。

わたしの夫は、完全なる他人だ。たとえ100年かけて彼が自分のことを語ってくれたとしても、「すべてを見せて欲しい」という願いには、永遠に納得も満足も訪れない。コイツのすべてを知ったぜ、などと思ったら、それはとても傲慢なことだ。

わたしは空気のようなものではない。だから、自分が存在して、自分が観察する存在である以上、彼はそのわたしに向けて自分を「表現」しようとする。

そのまんまを見せる、ってどういうことなのだろう。人は、他者が自分に対して「表現する」という工程を挟まない姿を、どうやって見ることができるのだろう。

彼から見たわたしというものは、わたしにはわからない。
でも勝手にそれを想像することはできる。
彼はきっとわたしのことを、「生きていて、意識があって、肉体があって、宇宙人で、哺乳類で、霊長類で、人類で、女性で、日本語が通じて、ものを思う人で、彼に多大なる執着がある人」だという前提をもって認識しているであろうと思う。

もしかしたら彼は超ひも理論に変に開眼していて、「生きているか死んでいるのか、意識や肉体があるかどうかなどはすべて自分の観察によって決まり、宇宙人でも哺乳類でも霊長類でも人類でも女性でもなく、日本語で話しても本当に通じているのかわからず、なにも思わない存在かもしれなくて、俺になんの執着もないかもしれない存在」だと思っているのかも知れないけれどね?(笑)

彼にとってきっとわたしは、「彼が男であること」を認め続けていてほしい相手だろうと思う。わたしは彼にとって、女性として見えていて、喜ばせたくて、笑わせたくて、幸せにしたいと思っている相手であることだろう。

男と女であることをキープしたいし、彼をずっとカッコいいと思っていて欲しいと感じる相手なのではないかな。彼の弱さカッコ悪さに気づいても「まあ、そういうのは彼の魅力に比べれば重要ではないちっぽけなこと」と思っていてほしい相手だろうと思う。

そんなことに着目するよりも、強い、すごい、優しい、誰よりもカッコいい、頼りがいがある、憧れる、ヒーロー、最高、と思っていて欲しい。

「さあわたしにだけ弱さをさらけ出して泣きなさい、そんなあなたを愛するから」などと求められても非常に困惑する相手だ。今は~心の~~痛みを~ぬぐって~~~小さな子供の、昔に、帰って、熱い胸に~~~甘えて~~的な!そんなこと言われたら、聖母たちのララバイと言うより、聖母ぶるなよグッバイと思う。

そんなの俺の勝手だ。弱みを見せてほしいのはお前の自己満足だ。誰にも、というか特にお前にはそんなこと指図されたくない。それよりも笑顔にしたい、カッコつけていたいという俺の自然な本能のほうこそをわかってほしい。それは生命エネルギーなのだし、そのエネルギーが別のものと循環するための潮流だから。

だから、俺が平静を装っているとわかっても、カッコつけているとわかっても、そんなことはどうでもいいと思っていて欲しい。知らんぷりしていて欲しい。うまく手のひらに乗せておいて欲しい。手のひらに乗せられているとわかったらそれはかなり恥ずかしいし、それがもしかしたらいちばんかっこ悪い姿を見せていることになる気もするけど、そんなの気にしないでいて欲しい。そしたらきっと、それに自分も甘えているだろうから。

・・みたいなことを、感じているのではないかな。そうわたしが勝手に想像している。もちろんもちろん、完全に勘違いかもしれないのだけど!!(笑)

彼が、彼の持つこれらすべての感覚を無視するというのは、神業よりも難しく、とても虚しいことだろうと思う。それらを彼が、まるでないことのように空気のように扱うだなんて。だからね、だったらもう、好きなだけ知らないところを持ってくれたらいいと思うのだ。

相手の、秘密をもつことによる安らぎを許すこと。
相手を永遠にわからないと認めること。
それはわたしにとっての深い安らぎそのものだった。
そうしてわからないと認めると、逆に、無言のうえに伝わってくるものこそに、真実を見ることがある。

ただ、言葉にならないところでの、一瞬の、なんの境界もない出会いがあって、それが散る。自分の思考による説得を一切必要としないものに触れる。見せ合うかどうか、わかり合うかどうかという次元にない交わりが、自分たちはもともと少しも離れてなどいないということを思い出させてくれる。

わたしは夫に、あなたのこと何ひとつわからないんだ。と言うし、
あなたはわたしのこと何ひとつ知らないよ。とも言う。
夫はニッコリする。わたしに、なにも聞かない。
多分、どうでもいいのだと思うw

わたしが昔の恋人にすべてを見せて欲しいと願っていたのは、相手が自分にすべてを見せてくれることで、完全に愛され完全に信頼される自分に価値があるのだと思いたかったから、だった。

その素晴らしい関係が、自分の生きる価値になりうると思っていた。自分を信頼するということを、彼に肩代わりさせようとしていた。

わたしが自分で、自分の価値を認めていなかったから。
わたしが自分で自分を、空気のように無視していたから。

それは自分ですることだった。自分でするようになると、もう他者に求めなくてもいいことになってしまう。

今のわたしは、自分で自分のことすらわからないと思っている。
壇珠さんのことが、わたしにはわからない。どんどん変化するし、こういう人だ!とつかんだ気がしても、ヒュルっと逃げてしまう。どんな決めつけも、通用しない。

それが、ほんとうに面白いことだと思う。
自分のことが、わからなくていい。
それは、あなたのこの先の人生がどうなるのかを見せてあげましょうか?と言われたら見たいと思わないのと同じようなことだと思う。

知らないからこそ、面白い。つかめないからこそ、エキサイティングなのだと思う。自分自身こそが、ミステリアスで、ファンタジーで、徳川埋蔵金のような(またこの喩え)、永遠のロマンスなのだと思う。

というわけで今日は、わたしには自分のことすらもわからないので、夫のことがわからなくてもしゃーないし、それを面白いと感じているのでした、という感覚について長々と説明してみました。どなたかと響き合えますように。この面白さが、わかちあえますように。
それではまた、明日ね!!

【オンライン個人セッション】

これまで対面でのみ行っていたセッションを、オンラインでも提供することとなりました。話題は自由です。ご家族やご夫婦の関係、その他人間関係についてのこと、お仕事や過去についてのことなど、さまざまなお悩みや今後の進路についてのご相談など。

個人セッションでは、わたしたちが本来持っている可能性を発揮し、この惑星で生きる面白みや神秘に目覚めて、本質的な自分に出会っていくお手伝いをしています。強みを見つけること、枠を外すことなども行っています。

もちろん、おしゃべりや意見交換など、気軽なセッションも歓迎です。
どうぞ、ご自分を尊重しながら、気楽に臨んでみてくださいね。
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