人を癒すための暴力は存在してもいいのか
暴力はよくないことだと考えているヒトが大半を占める。
ただ、何気ない行動が、実は暴力的だと気づくヒトはどれぐらいいるのか。
良かれと思ったことが、愛するヒトを傷つけてしまうことがあるということを。
相手の悩みを解決しようとする質問でさえも、相手の心の準備ができていない場合は、それは暴力へと姿を変えて、頭や心を抑えつけて、傷をつける。
突然のカメラのシャッターは、被写体の存在を脅かす。
作品と言いつつ、誰かのプライバシーを他者に公開する。
ありとあらゆる状況で、さまざまな規模で、暴力は満ちている。
自分の中に眠っている暴力性を自覚することで、どうにかコントロールはできるかもしれない。
破壊願望は間違いなく、自分にもある。それを良い方向へと活かすことができないかと希望を持っている。
大事なヒトの病気を治したい。健康にしたい。その時に思うのは、そのヒトが苦しんでいる状況を破壊してあげたいという欲求。その原因となっているものを駆逐したいという衝動。
破壊があるから再生があるとするなら、再生のための暴力は、あっていいものなのか。気をつけなければいけないのは、危険な思想に陥ってしまうこと。テロリストのように、他者を攻撃することが肯定されるのは違う。
良い方向というのは、国や文化が違えばもちろん違ってくる。良い悪いの基準では、誤った方向に進んでしまう可能性がある。
ヒトを癒すための暴力、であれば存在してもいいのか。回復を促すための暴力。つまり、暴力を目的とするのではなく、あくまでも手段として選択する。もちろん、その差は紙一重な気がする。「あなたのためだから」と言って、同意なき暴力はその辺に腐る程に生まれているだろうから。
暴力を駆逐したい時、自分の目もきっと狂気に満ちている。この膨大なエネルギーとどう向き合うか、調和していくか。
こうして、言葉を書くことも誰かにとっては、暴力として受け取られることもわかっている。傷をつけ合いながら暮らしている。傷だらけになりながら生き延びている。無傷でいることは難しい。
「他人に迷訳をかけるな」という教えは、今では頭から剥がれ落ちて宙に浮いている。生きていれば、ヒトを傷つけることがある。もちろん誰かに傷つけられることがある。その繰り返し。
「暴力はいけません。」確かにそうだ。そのいけないとされている行為を、自分は自分に繰り返しぶつけていく。誰かを傷つける前に、自分を傷つける。破壊する。思い込みや恐怖を木っ端微塵にして、何度も再生をしながら、他者を受け入れていく。そして、世界の平和を夢見る。
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