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【シリーズストーリー】小説家マドカさん ふたたび登場

 「円ハイツ」は小田急線の下北沢駅から徒歩15分、世田谷代田駅からだと12分くらいの所にある、2階建てのおんぼろアパートだ。私は下北沢の飲食店でバイトをしながら、小さな劇団で演劇をやっている。32歳未婚。103号室が私の部屋だ。大家さんが101号室に住んでいて、小説家らしい。大家さんの名前はマドカさん。マドカさんだから「円ハイツ」。ひょろっとして猫背の45歳くらいのおじさん。存在感が希薄で、足音も立てずに歩くので、廊下や玄関で、気づくと真後ろにぬぼーっと立ってたりして怖い。

 2階の201号室に大学生の男の子が住んでいる。郵便受けにOginoと書いてあったから、多分、荻野君。私はこの201号室が空く、と聞いたのでここに越して来たのだが、どういうわけか都合で延期になっているらしい。それで私は仕方なく日当たりの悪い1階に住んでいる。あとは203号室に20代サラリーマン風の男性。時々玄関で鉢合わせするが、会釈程度で話したことはない。内気そうな人だ。名前は郵便受けに書いてないので知らない。羽生結弦選手に似ているので、心の中で勝手に〈羽生ちゃん〉と呼んでいる。102号室と202号室は現在、借り手なし。まあボロいので無理もない。

 昨夜ちょっとした騒動があった。このアパートに住み着いている猫3匹が夜になっても帰って来なかったのだ。私が深夜近くに仕事から帰宅すると、マドカさんが玄関にがっくり肩を落として座っていた。
 「ワタナベノボル1号、2号、3号が失踪してしまった」
 なぜ、私にこれが猫のことだと分かったかというと、マドカさんが猫たちをこう呼んでいるのを聞いたことがあるからだ。どれが何号なのかまでは知らない。ひょっとしたらマドカさんも知らないんじゃないかという気がする。ところで、私は筋金入りの〈ハルキスト〉なので、ワタナベノボルが村上春樹の小説に出てくる人物および猫の名前であることは、すぐにわかった。マドカさんのユーモアに少し親近感を覚えていたが、肩を落としている目の前のマドカさんには鬼気迫るものがあって、ちょっと引いてしまった。
 「きっと戻って来ますよ」と無責任に軽く声をかけ、さっさと部屋に入ろうとしたその時、マドカさんがボソッと呟くのを聞いた。

 「これをどう捉えるかは私の小説家としてのプライドに関わる問題なんだ。ワタナベノボル達は再び失踪なんかして、いったいどこへ向かったっていうんだ。私には考えても考えても答えが見つからない。私は村上先生の小説からワープして来た彼らに、寝場所と食うに困らない安穏な生活を与えてやったというのに、なんだって突然、存在を消してしまったりするんだ。普通に考えたら、これはひどく恩知らずな行為じゃないか。やれやれ。そんな風にこちらの存在を無視されると、私は小説家としてはおろか、人としての確信が持てなくなってしまうよ」

 そうか、ただ変な名前で呼んでるだけじゃないんだ。〈マドカワールド〉ではそんなことになっていたんだ。マドカさんが憤慨して、またとても落ち込んでいるようだったので、私は、まずいとは知りつつも余計なことを言ってしまった。
 
 「マドカさん、ワタナベノボル達は何か使命があって、また小説の世界に戻って行ったんじゃないかしら」
 「それは村上先生の小説ってこと?」
 「さあ、そこまでは。でも、マドカさんの小説にワープして来るっていう可能性もあるんじゃないですか?」

 マドカさんの細い目が一瞬、光を放った。急に何かを思い出したように、そそくさと部屋へ入って行ってしまった。

          ◇
 

 翌朝、2階から「ギャー」という大きな叫び声がアパート中に響き渡った。声の大きさからして〈羽生ちゃん〉でないことは容易に想像がついた。すぐにその声の主が降りて来た。

 「大家さーん。マドカさーん。大家さーん」

 私はいったい何事かとドアを開けてのぞいた。予想どおり、201号室の荻野君だった。マドカさんはしばらくして、クシャクシャの頭を掻き掻き、眠そうな顔でドアを開けながら言った。

 「あっごめん、ごめん。明け方まで執筆してたもんだから。いや〜急にコンスピペーションが沸いてね……」

 マドカさんが言い終わらないうちに、荻野君が遮って言った。

 「こいつらがいつのまにかうちの押し入れに居たんですよ。布団しまおうと思ったら3匹揃って、こっち見てて。もーびっくりしましたよー。しかもなんで3匹揃ってなきゃいけないんすか?気味わりいっすよ。いつも僕んとこばっか来るし。なんかあるんすか、あの部屋?」

 荻野君は段ボール箱に入れて抱えていたワタナベノボル1号から3号を、マドカさんに手渡した。

 「夏までには出て行きますが、またこいつらが勝手に僕の部屋に来ないように、監視をお願いします。それから、コンスピペーションは〈便秘〉です。それを言うならインスピレーションです」

 その時のマドカさんの嬉しいようながっかりしたような恥ずかしいような表情は、ちょっと見ものだった。

(「小説家マドカさん 三たび登場」へつづく)
 

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