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いつも男は立ち去る。女を置いて。

 その女は30代前半だった。結婚している。夫がいて、小学三年生の息子がいる。三人家族だ。夫との関係は、表面的には、問題ないように見えた。だが内心ではそうでもなかった。レスだった。もう10年くらいない。かなり早い段階でそうなった。
 夫が部屋で、そういう動画を見て、解消しているのは知っていた。
 世間体だけ考えて結婚生活に入ったのだろうか。夫とはお見合いパーティーで知り合ったが、最初の頃と今では全然違う。何が不満なのか、よく分からなかった。
 息子は手がかかる。子供もその女を困らせていた。
 担任の先生から、いつも息子が、スカートめくりの主犯格として、クラスで暴れていると言われて困っていた。夫にも相談したが、「そのうちやらなくなる」としか答えなかった。
 確かに最近、止まったようだったが、その本当の理由までは分からなかった。夫は「それ見た事か」と言った。それっきり、息子の件で、夫が相談に乗る事はなかった。
 息子は正常な状態になった。悪くない。世間から見たらどう評価するか分からないが、やはり息子は息子だ。育てたい。まだ手がかかるが、それはそういうものだと割り切るしかない。
 夫の仕事は、最近の世界的な物価高もあり、好調とは言えなかったが、不調でもない。
 業界的に倒産する会社もあるらしいが、夫の会社は大丈夫そうだった。問題ない。
 経済的には安定していた。ずっとこのまま同じ生活が続くと思われた。
 だが心の隙間に、寂しさという名の冷たい風が吹き込み、その平穏さは失われていた。
 これまでは、平穏無事な人生だったと言えた。その女は問題を起こした事がない。
 だが子供の頃から、空想の中で、激しく燃え上がる恋の人生を夢見たりしていた。
 古い小説、古い映画で、『風と共に去りぬ』(注25)というロマンスあるが、この女はスカーレットとバトラーに憧れた。アメリカの南北戦争を背景に、ヒロインは何度も運命を翻弄され、南部のタラスを舞台に、波瀾万丈のスペクタクルが繰り広げられる。凄くリアルな描写だ。
 だがこの物語は、女の復讐と情念で満ちている。呪いだ。それからお金まみれの世界観と地元名士のお嬢様という立ち位置だ。ちょっと狂っている。そしてこの女も、一度でいいから、ああ言う風に、思うがままに生きてみたいと思っていた。満たされない渇望に、共感していた。
 そしてこのまま自分の人生が静かに枯れて逝く事に、まだ女の部分が激しく抵抗していた。
 一度でいいから、自由に生きてみたい。あの深紅のドレスを纏ったスカーレットのように。
 出会いはあった。パート先の同年代の男性だ。夫の会社の子会社で、夫の口利きで、総務事務の手伝いを、パートタイムで入っている。給料は悪くない。仕事も楽だった。
 夜、食事に誘われた。何度も誘惑があった。ホテルに行った。乗ってしまった。不倫だ。
 だが何が悪い?皆隠れてやっている事ではないか。まだ誰にも迷惑も掛けていない。
 夜、その男は言った。
 「愛している」
 女は男を見詰めた。今まで一度も言われた事がない。男も女に尋ねた。
 「愛している?」
 「……愛している」
 そんなやり取りを何度も繰り返した。気分だ。ムードだ。100年の恋だ。
 単純ではあったが、効果的だった。魔法と言ってもいい。男は言葉の使い方、タイミングをよく心得ていた。慣れていると言ってもいい。そこに落とし穴があるかも知れないと思わなかったのが、この女の運の尽きだった。女は嘘に弱かった。これは本当にそうだ。
 本来、男はいちいちそんな事は言わない。面倒臭いからだ。曰く、察しろだ。
 だから曖昧かつ、テキトーに済ませておく。処世術だ。その結果、世の女たちは不満になるのだが、逆にマメに愛を囁く男は注意した方がいい。そんな男はイタリア人か、シェイクスピアか、経営者か、宇宙飛行士か、禄でもない奴である可能性が高い。
 そしてこの男は、一番最後の類であった。だが女は、全てを振り切ってでも、この恋に生きると考えた。だから離婚協議を開始した。たちまち、両家の親たちが怒り出し、揉めた。
 「……離婚は構わないが、息子の親権はこちらだ。それからお金の話は一切なしだ」
 夫は言った。両家の親たちもこれには同意した。
 あれ?慰謝料は?と女は思った。女は離婚すれば、慰謝料が自動的に貰えるものだと思っていた。勿論、それは不倫した方が、謝罪の意味も込めて払うものである。この場合、彼女の認識はあべこべで、社会人として常識の欠如があった。彼女が慰謝料を貰える訳がない。
 基本的に、彼女は聞いて齧った週刊誌的、お昼のワイドショー的な知識しかなかった。
 あてが外れた形となったが、そんな彼女に男は言った。
 「酷い男もいたもんだね。子供もお金も全部持って行くんだ」
 ものは言いようである。その男は、女に慰謝料を取るように勧めていた。
 無論、ダメ元で言っていたのだろう。営業的観点から言えば、正しい行動とも言える。
 相手が弱かった場合、お金を出す者もいて、言ったもん勝ちも、確かに存在するからだ。
 それが本当に正しい事なのかどうかはさておき。
 離婚は成立した。慰謝料は貰えなかったが、愛は得たと女は思った。
 女の両親は、孫を失い、娘の行動に完全に腹を立てて、家から勘当した。
 親戚一同も彼女を追放し、一族の誰とも連絡が付かなくなった。
 「お母さん……」
 最後に一目見た息子の姿が忘れられない。泣いていた。
 自分が悪い子だったから、こうなったのかと言っていた。
 もう悪い事はしないから、お母さん、帰って来てとも言っていた。
 だが女は男と愛に生きると心に誓って、息子をも振り切って、再出発した。
 そこは地獄だった。
 女の運命の行先に待ち構えていたのはDVだった。なぜ男は女を殴る?とんでもない事になった。男は豹変?した。いや、元からこういう男だったのだろう。そういう男はいる。
 女は嘘に弱く、男の罠に落ちていた。だが何のためにこんな事をしているのか不明だった。お金でも狙っていたのか。男はそのうち、別の女と付き合い始め、部屋から追い出そうとした。
 抵抗しても無駄だった。女は信じていたものが全て崩れたと感じた。
 100年の恋なんて、やはり幻想だったのかと思った。
 そう言えば『風と共に去りぬ』でも、スカーレットは最後に100年の恋も冷めると言われて、バトラーから立ち去られている。そうだ。いつも男は立ち去る。女を置いて。
 じゃあ、残された女はどうすればいい?
 息子の事が頭にチラついた。会いたい。だがもう息子と接触する事は禁じられていた。離婚協議の時に決まった事だった。元夫は、完全に女を排除する手を打っていた。
 もうどうにもならなかった。全て自分が悪い。元夫は再婚したと風の噂で聞いた。相手は連れ子がいて、若い娘がいるらしい。女は独りになると、何とか飲食店で働いて暮らした。
 だが折からのハイパーインフレと、トリプルパンデミック、世界大戦なども重なり、お店が次々潰れた。とうとう夜の女になるしかないと言う状況に立たされても、そういうお店でさえ、淘汰されて潰れて行った。外に街娼さえ現れるようになり、女の仕事がなくなった。
 世界が急速に悪くなるのと軌を一にして、女の健康状態も悪化した。感染症だ。
 女はまだ30代だというのに、老婆のような姿に変貌して、床に就いていた。
 運命が閉じようとしていた。どのルートを辿っても、近い将来、死が待ち構えている。
 見る者が見れば、死相というものさえ、浮かんでいたかも知れない。
 だが女にはたった一つだけ希望があった。
 それは息子への愛だ。ずっと会いたいと思っていた。
 少ないお金を溜めて、小学校卒業記念、中学校入学記念、中学校卒業記念、高校入学記念と用意していた。筆記用具など、ささやかなものに過ぎなかったが、間違いなく愛だった。
 それからスマホで、息子との架空のやりとりを、ずっと小説にしてあげていた。とあるお母さんの日常系小説だ。ありきたり過ぎて、ビューは殆どつかない。ごくまれに「いいね」も付くが、それは少数だ。だが小説というものは、読む者より、編む者の方が、大きな糧を得る。
 女は、蚕が糸を吐き出すように、息子との時間をゆっくりと編んでいた。善行だ。
 それは完全な妄想の世界、在り得ないものを幻視している、とも言い切れなかった。並行世界では、完璧に実現している話だった。これも人には誰しもいる並行世界の恋人だ。
 女にとって、息子は最後の希望であり、最後の愛だったからだ。愛は時空を超える。
 「……あなたは十分苦しんだ。もうおしまいにしてもいい」
 女の枕許に、小柄で不吉な影が立っていた。デス・サイズを持っている。
 「あなたは誰?……私の死?」
 女がそう尋ねると、小柄で不吉な影は頷いた。
 「ああ、最期に息子の姿が見たい」
 その30代の老婆は手を宙に伸ばした。小柄で不吉な影は逡巡していた。
 「……あなたにはオルタネィティブがある。見たいか?」
 触媒はある。この女が編んだ小説だ。並行世界に繋がっている。これは呪いではない。愛だ。
 「見たい」
 女はよく分かっていなかった。だが見たいと言った。小柄で不吉な影は頷いた。
 「……分かった」
 本当はいけなかった。上から許可が降りていない。下手をしたら、こちらが首になる。
 「秘儀、並行世界の恋人。アンリミテッドワールド」
 小柄で不吉な影は、デス・サイズを右回しに高速回転させた。
 光が弾けて、溢れる。運命が再構築されて、並行世界の恋人が姿を現した。
 「……お母さん」
 息子は高校生になっていた。かつてスカートめくりのケンちゃんと言われた子だ。成長して立派な子になっている。やんちゃ坊主の面影は影を潜め、全く別人のようになっていた。
 余程、いい人が、近くにいたのか。見違えた。夢のようだ。いや、夢か。並行世界か。
 「ああ、ケン……」
 お母さんは泣いていた。泣いていた。全ての男は立ち去る。これは真理だ。
 だが子は残される。それは神様が、女たちに約束したこの上もない贈り物だ。
 人類は、人間存在は、こうやって、糸を紡ぐ。子も涙を流していた。
 その女は、息子の腕の中で息絶えた。幸せだった。最後に女は母として生きた。善行だ。
 並行世界の扉が閉ざされると、その死神美少女は、ガクッと膝を崩した。力を使い過ぎたのだ。これまで蓄積した善行も、全て使い果たした。昇格はない。むしろ、降格される。
 だが満足していた。恐らく閻魔大王から怒られるだろう。死神が私情に走ってはならないと。
 部屋の片隅に本とDVDがあった。『Gone With the Wind』だ。死神美少女は冷たい目で見た。ポンと火が点いて、その文学は風と共に去った。世界から呪いがまた一つ、消えた。
 「Time flies like an arrow」(諸行無常)
 死神美少女は呟いた。こんな明々白々な真理さえ、人は気付かず生きている。
 百年の恋も、諸行無常に晒される。それはあの世から吹いてくる冷たい風だ。
 
 注25 原作は小説『Gone With the Wind』1936年 マーガレット・ミッチェル アメリカ
 
          『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード53

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