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[英詩]ディランと聖書(16) 聖書と文学(Gilmour-5)

※ 旧「英詩が読めるようになるマガジン」(2016年3月1日—2022年11月30日)の記事の避難先マガジンです。リンク先は順次修正してゆきます。

※「英詩のマガジン」の主配信の2月の1回目です(英詩の基礎知識の回)。

ディランと聖書の関りについて、原点に返って考えてみます。この問題は、〈ディラン〉を〈詩〉や〈小説〉に置換えても ほぼ成立します。

新約聖書学者のギルモー (Michael J. Gilmour) の研究 (下記の基本的文献の 4., 下) について、そのアプローチを正面から考える5回めです。

Michael J. Gilmour, 𝑇𝑎𝑛𝑔𝑙𝑒𝑑 𝑈𝑝 𝑖𝑛 𝑡ℎ𝑒 𝐵𝑖𝑏𝑙𝑒

前回は、ギルモーの採る方法論 Intertextuality を対話の観点から考えました。誰かがテクストを作ったとき、それは他のテクスト乃至文脈を処理したものであり、それへの返答であるという観点を述べたダンの言葉を見て、ディランのそれへの応答を、ギルモーの立場から概観しました。今回はその続きです。

本マガジンは英詩の実践的な読みのコツを考えるものですが、毎月3回の主配信のうち、第1回は英詩の基礎知識を取上げています。

これまで、英詩の基礎知識として、伝統歌の基礎知識、Bob Dylan の基礎知識、バラッドの基礎知識、ブルーズの基礎知識、詩形の基礎知識などを扱ってきました。(リンク集は こちら )

また、詩の文法を実践的に考える例として、「ディランの文法」と題して、ボブ・ディランの作品を連続して扱いました。(リンク集は こちら )

詩において問題になる、天才と審美眼を、ボブ・ディランが調和させた初の作品として 'John Wesley Harding' をアルバムとして考えました。(リンク集は こちら)

また、7回にわたってボブ・ディランとシェークスピアについて扱いました (リンク集は こちら)。

最近は、歴史的には、そして英語史的にも、同時代の英訳聖書と、ディランについて扱っています。

「ディランと聖書」シリーズの第1回でもあげましたが、ディランと聖書の問題を考えるうえでの基本的文献は次の通りです。今回、Di Lauro の論文を1点追加したので、Gilmour の番号は 4. になります。

  1. Bradford, A[dam]. T[imothy]. 𝑌𝑜𝑛𝑑𝑒𝑟 𝐶𝑜𝑚𝑒𝑠 𝑆𝑖𝑛 [formerly 𝑂𝑢𝑡 𝑜𝑓 𝑡ℎ𝑒 𝐷𝑎𝑟𝑘 𝑊𝑜𝑜𝑑𝑠: 𝐷𝑦𝑙𝑎𝑛, 𝐷𝑒𝑝𝑟𝑒𝑠𝑠𝑖𝑜𝑛 𝑎𝑛𝑑 𝐹𝑎𝑖𝑡ℎ] (Templehouse P, 2015)

  2. Cartwright, Bert. 𝑇ℎ𝑒 𝐵𝑖𝑏𝑙𝑒 𝑖𝑛 𝑡ℎ𝑒 𝐿𝑦𝑟𝑖𝑐𝑠 𝑜𝑓 𝐵𝑜𝑏 𝐷𝑦𝑙𝑎𝑛, rev. ed. (1985; Wanted Man, 1992)

  3. Di Lauro, Frances. ‘Living in the End Times: The Prophetic Language of Bob Dylan’ (Book chapter in Carole M. Cusack, Frances Di Lauro and Christopher Hartney, eds., 𝑇ℎ𝑒 𝐵𝑢𝑑𝑑ℎ𝑎 𝑜𝑓 𝑆𝑢𝑏𝑢𝑟𝑏𝑖𝑎: 𝑃𝑟𝑜𝑐𝑒𝑒𝑑𝑖𝑛𝑔𝑠 𝑜𝑓 𝑡ℎ𝑒 𝐸𝑖𝑔ℎ𝑡ℎ 𝐴𝑢𝑠𝑡𝑟𝑎𝑙𝑖𝑎𝑛 𝑎𝑛𝑑 𝐼𝑛𝑡𝑒𝑟𝑛𝑎𝑡𝑖𝑜𝑛𝑎𝑙 𝑅𝑒𝑙𝑖𝑔𝑖𝑜𝑛, 𝐿𝑖𝑡𝑒𝑟𝑎𝑡𝑢𝑟𝑒 𝑎𝑛𝑑 𝑡ℎ𝑒 𝐴𝑟𝑡𝑠 𝐶𝑜𝑛𝑓𝑒𝑟𝑒𝑛𝑐𝑒 2004, pp. 186-202, Sydney: RLA P, 2005) [URL]

  4. Gilmour, Michael J. 𝑇𝑎𝑛𝑔𝑙𝑒𝑑 𝑈𝑝 𝑖𝑛 𝑡ℎ𝑒 𝐵𝑖𝑏𝑙𝑒 (Continuum, 2004)

  5. Heylin, Clinton. 𝑇𝑟𝑜𝑢𝑏𝑙𝑒 𝑖𝑛 𝑀𝑖𝑛𝑑: 𝐵𝑜𝑏 𝐷𝑦𝑙𝑎𝑛'𝑠 𝐺𝑜𝑠𝑝𝑒𝑙 𝑌𝑒𝑎𝑟𝑠 - 𝑊ℎ𝑎𝑡 𝑅𝑒𝑎𝑙𝑙𝑦 𝐻𝑎𝑝𝑝𝑒𝑛𝑒𝑑 (Route, 2017)

  6. Karwowski, Michael. 𝐵𝑜𝑏 𝐷𝑦𝑙𝑎𝑛: 𝑊ℎ𝑎𝑡 𝑡ℎ𝑒 𝑆𝑜𝑛𝑔𝑠 𝑀𝑒𝑎𝑛 (Matador, 2019)

  7. Kvalvaag, Robert W. and Geir Winje, eds., 𝐴 𝐺𝑜𝑑 𝑜𝑓 𝑇𝑖𝑚𝑒 𝑎𝑛𝑑 𝑆𝑝𝑎𝑐𝑒: 𝑁𝑒𝑤 𝑃𝑒𝑟𝑠𝑝𝑒𝑐𝑡𝑖𝑣𝑒𝑠 𝑜𝑛 𝐵𝑜𝑏 𝐷𝑦𝑙𝑎𝑛 𝑎𝑛𝑑 𝑅𝑒𝑙𝑖𝑔𝑖𝑜𝑛 (Cappelen Damm Akademisk, 2019) [URL]

  8. Marshall, Scott M. 𝐵𝑜𝑏 𝐷𝑦𝑙𝑎𝑛: 𝐴 𝑆𝑝𝑖𝑟𝑖𝑡𝑢𝑎𝑙 𝐿𝑖𝑓𝑒 (WND Books, 2017)

  9. Rogovoy, Seth. 𝐵𝑜𝑏 𝐷𝑦𝑙𝑎𝑛: 𝑃𝑟𝑜𝑝ℎ𝑒𝑡, 𝑀𝑦𝑠𝑡𝑖𝑐, 𝑃𝑜𝑒𝑡 (Scribner, 2009)

これら以外にも、一般のディラン研究書のなかにも聖書関連の言及は多く含まれています。それらについては、参考文献 のリストを参照してください。

※「英詩が読めるようになるマガジン」の本配信です。コメント等がありましたら、「[英詩]コメント用ノート(202202)」へどうぞ。

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英詩の実践的な読みのコツを考えるマガジンです。
【発行周期】月3回配信予定(他に1〜2回、サブ・テーマの記事を配信することがあります)
【内容】〈英詩の基礎知識〉〈歌われる英詩1〉〈歌われる英詩2〉の三つで構成します。
【取上げる詩】2018年3月からボブ・ディランを集中的に取上げています。英語で書く詩人として新しい方から2番めのノーベル文学賞詩人です。(最新のノーベル文学賞詩人 Louise Glück もときどき取上げます)
【ひとこと】忙しい現代人ほど詩的エッセンスの吸収法を知っていることがプラスになります! 毎回、英詩の実践的な読みのコツを紹介し、考えます。▶︎英詩について、日本語訳・構文・韻律・解釈・考察などの多角的な切り口で迫ります。

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これまでのまとめ

ディランと聖書の問題を扱うシリーズの概要は次の通りです。

シリーズの (1), (2), (3), (4) についての簡単なまとめは こちら

シリーズの (5), (6), (7), (8) についての簡単なまとめは こちら

シリーズの (9), (10), (11) についての簡単なまとめは こちら

シリーズの (12) は、ギルモーが、聖書を純粋にディランの詩から参照されるテクストとして扱い、ディランの全キャリアにおける歌に差をつけず、すべてフラットに扱うというアプローチを見ました。ギルモーがディランと聖書について考える際の方法論は、インターテクチュアリティです。

(13) は、ギルモーが 𝐴 𝐷𝑖𝑐𝑡𝑖𝑜𝑛𝑎𝑟𝑦 𝑜𝑓 𝐵𝑖𝑏𝑙𝑖𝑐𝑎𝑙 𝑇𝑟𝑎𝑑𝑖𝑡𝑖𝑜𝑛 𝑖𝑛 𝐸𝑛𝑔𝑙𝑖𝑠ℎ 𝐿𝑖𝑡𝑒𝑟𝑎𝑡𝑢𝑟𝑒 のディラン版を目指すことを確認し、聖書がディランの作品で、本を書くに値するほど顕著な存在なのかの問題を考えました。ディランの1965年のインタビューのことば (〈聖書を読んだことはない〉) を額面通り受取る必要はなく、本当は読んでいたと取るべきであると、ギルモーは示唆しています。

(14) は、インターテクチュアリティのシンプルな形としての〈源泉の特定〉が、テクストの解釈に資するかどうかが問題であるとの、ギルモーの指摘を見ました。「あるテクストを、他のテクストの内容や構造への言及、また、それらとの相異に照らして読む必要性」(OED の intertextuality の定義) は、よりよい解釈が導ける可能性があるからという考え方です。流れこんだ無数の影響の流れから成るテクストの意味を、作者でさえ知り得ないことから、〈作者の意図〉(authorial intent) は提示しないとしています。

(15) は、インターテクチュアリティと対話の問題を考えました。Ellen van Wolde の考え〈誰かがテクストを作ったとき、それは他のテクスト乃至文脈を処理したものであり、それへの返答である〉を見たあと、同種の考えを提示した John Donne の言葉を読んで、ディランのその言葉への応答と見られる例を2つのアルバムから挙げました ('Time out of Mind' と ‘“Love and Theft”’)。


Intertextuality and Subjectivity

ギルモーは、インターテクスチュアリティを研究することはテクストの比較をともなうと述べる。その際に、ある作者が先行する源泉に負うていると主張することが、主観的判断 (subjectivity) ではないかとのそしりを招きやすいと指摘する。

しかし、ときには、作者がはっきりと依存関係を示すことがある。読者が文学的先行者を認識してくれるよう、作者が期待することもよくある。例えば、テクストに典拠が示してある場合や、パロディの場合などである。(*)

(*) パロディ parody: ひやかすように文学作品を模倣すること。ある作家や流派の文体上の特徴を誇張して真似する。パロディは、戯作 (burlesque) や風刺 (satire) や批判 (criticism) に関連する。例は騎士道的ロマンスをパロディにしたセルバンテスの『ドン・キホーテ』など。(𝑇ℎ𝑒 𝑂𝑥𝑓𝑜𝑟𝑑 𝐷𝑖𝑐𝑡𝑖𝑜𝑛𝑎𝑟𝑦 𝑜𝑓 𝐿𝑖𝑡𝑒𝑟𝑎𝑟𝑦 𝑇𝑒𝑟𝑚𝑠, 3rd ed., 2008)

そもそも、パロディは、元の文脈が何かを読者が分ってくれていないと成立しないから、作者としては元ネタの提示乃至暗示をするのは当然だ。


では、作者は、読者に分ってもらうために、どうやって元ネタを示すのだろうか。

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