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[英詩]ディランと聖書(12) アプローチ(Gilmour)

※ 旧「英詩が読めるようになるマガジン」(2016年3月1日—2022年11月30日)の記事の避難先マガジンです。リンク先は順次修正してゆきます。

※「英詩のマガジン」の主配信の10月の1回目です(英詩の基礎知識の回)。

ディランと聖書の関りの問題にはいろいろなアプローチがあります。その点について、原点に返って考えてみます。なお、この問題は、ディランを〈詩〉や〈小説〉や〈文学一般〉と置換えても ほぼ成立します。

これまで何度か触れてきたギルモー (Michael J. Gilmour) の研究ですが (下記の基本的文献の (3), 下)、彼のアプローチについて正面から取上げてきませんでした。そこで、今回はそれを考えてみます。

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本マガジンは英詩の実践的な読みのコツを考えるものですが、毎月3回の主配信のうち、第1回は英詩の基礎知識を取上げています。

これまで、英詩の基礎知識として、伝統歌の基礎知識、Bob Dylan の基礎知識、バラッドの基礎知識、ブルーズの基礎知識、詩形の基礎知識などを扱ってきました。(リンク集は こちら )

また、詩の文法を実践的に考える例として、「ディランの文法」と題して、ボブ・ディランの作品を連続して扱いました。(リンク集は こちら )

詩において問題になる、天才と審美眼を、ボブ・ディランが調和させた初の作品として 'John Wesley Harding' をアルバムとして考えました。(リンク集は こちら)

最近、7回にわたってボブ・ディランとシェークスピアについて扱いました (リンク集は こちら)。

最近は、歴史的には、そして英語史的にも、同時代の英訳聖書と、ディランについて扱っています。

「ディランと聖書」シリーズの第1回でもあげましたが、ディランと聖書の問題を考えるうえでの基本的文献は次の通りです。

(1) Bradford, A[dam]. T[imothy]. 'Yonder Comes Sin' [formerly 'Out of The Dark Woods: Dylan, Depression and Faith'] (Templehouse P, 2015)
(2) Cartwright, Bert. 'The Bible in the Lyrics of Bob Dylan', rev. ed. (1985; Wanted Man, 1992)
(3) Gilmour, Michael J. 'Tangled Up in the Bible' (Continuum, 2004)
(4) Heylin, Clinton. 'Trouble in Mind: Bob Dylan's Gospel Years - What Really Happened' (Route, 2017)
(5) Karwowski, Michael. 'Bob Dylan: What the Songs Mean' (Matador, 2019)
(6) Kvalvaag, Robert W. and Geir Winje, eds., 'A God of Time and Space: New Perspectives on Bob Dylan and Religion' (Cappelen Damm Akademisk, 2019) [URL]
(7) Marshall, Scott M. 'Bob Dylan: A Spiritual Life' (WND Books, 2017)
(8) Rogovoy, Seth. 'Bob Dylan: Prophet, Mystic, Poet' (Scribner, 2009)

これら以外にも、一般のディラン研究書のなかにも聖書関連の言及は多く含まれています。それらについては、参考文献 のリストを参照してください。

※「英詩が読めるようになるマガジン」の本配信です。コメント等がありましたら、「[英詩]コメント用ノート(202110)」へどうぞ。

このマガジンは月額課金(定期購読)のマガジンです。月に本配信を3回お届けします。各配信は分売もします。

英詩の実践的な読みのコツを考えるマガジンです。
【発行周期】月3回配信予定(他に1〜2回、サブ・テーマの記事を配信することがあります)
【内容】〈英詩の基礎知識〉〈歌われる英詩1〉〈歌われる英詩2〉の三つで構成します。
【取上げる詩】2018年3月からボブ・ディランを集中的に取上げています。英語で書く詩人として新しい方から2番めのノーベル文学賞詩人です。(最新のノーベル文学賞詩人 Louise Glück もときどき取上げます)
【ひとこと】忙しい現代人ほど詩的エッセンスの吸収法を知っていることがプラスになります! 毎回、英詩の実践的な読みのコツを紹介し、考えます。▶︎英詩について、日本語訳・構文・韻律・解釈・考察などの多角的な切り口で迫ります。

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これまでのまとめ

ディランと聖書の問題を扱うシリーズの概要は次の通りです。

シリーズの (1), (2), (3), (4) についての簡単なまとめは こちら

シリーズの (5), (6), (7), (8) についての簡単なまとめは こちら

(9)'Precious Angel' の聖書との関りを考えました。ディランは聴き手に霊戦でどちらにつくのか決断を迫ります。聴き手の板挟み状態をリクスは Faith in Dylan と表現します。(1) ディランにおける信 (信仰) / (2) ディランに対する信 の2つの意味があり得ます。聴き手は雅量をもってアートに接するべきだとリクスは主張します。歌の冒頭の 'Precious angel, under the sun' は下手をすると陳腐にひびきかねませんが、angel を前後から修飾する語句は、聖書 (特にヨハネの黙示録) に照らすと、特別な意味が浮かびあがります。聖書の文脈から どうずらし、どう応用することで特別な表現を生み出しているのかを考えます。

(10)'Forever Young' の聖書との関りを考えました。1連の2行 (公式詩集で3-4行) に 'do for' という句動詞が現れます。ここはその表現の否定的な意味でなく、肯定的な意味であるとリクスは指摘します。do for というとき、神が人間を思ってなしてくださる恵みを人間も神に返そうとするというニュアンスが古来含まれています。そういう神聖な (宗教的) 意義が、人間同士について do for を用いたときにも、ひそかに感じられます (ティンダル訳の Luke 6.33 など)。現代語で そのニュアンスをこめて人と人との間で do for を使うことはまれですが、それをあえてここでディランは用い、聴いている人に すとんと得心させてしまう。驚くべき詩行といえます。

(11) は 'Watered-Down Love' について、歌の内容を概観した後に、聖書との関りを考えました。この歌で愛を表すことばは 'love' ですが、実は 'charity' の意で使われていることを、リクスは示唆します。キリスト教の三つの徳 (graces) である faith, hope, charity (信・望・愛) の charity です。AV のコリントの信徒への手紙一 13章が響いている歌としてこの歌を捉えた場合、聖パウロが用いた charity をディランは pure love (love that's pure) に置換えて本歌で表現しているとリクスは主張します。


Gilmour のアプローチ

ディランと聖書の関りというと、ふつうは、ディランの歌にみられる聖書を、ディランの信仰と結びつけて捉える。つまり、もともとはユダヤ教徒だったディランが1970年代末頃にキリスト教に改宗したことと歌とを結びつけて考えたりする。ディランの内面や信仰生活が歌に反映されているとする見方だ。

このような捉え方は文学の伝記的研究方法 (伝記的アプローチ) の一種といえる。文学の解釈を作者の伝記的側面に関連づけて考える研究態度である。

今でも広く行われる研究方法の一つであるばかりでなく、場合によっては、この方法によらなければ研究不能のこともある。

良い例が1923年にノーベル文学賞を受賞した、20世紀前半を代表する詩人、アイルランドのイェーツ (William Butler Yeats) だ。彼の場合はテクストだけを分析する手法によっては読解はほぼ不可能である。彼の人生における出来事や思想を緻密に考え合わせなければ解釈ができない。

伝記的研究方法と対照的な方法が、テクスト中心の研究方法である。伝記的側面はいったん視野の外において、テクストのみを分析し、テクストから解釈を引出す。そのためにしばしば精密なテクスト理論を援用する。

文学研究の歴史では、この方法論が最もさかんだったのが20世紀半ばの新批評 (New Criticism) の時代だ。エンプスン (William Empson) による多義性の分析など、今日でも十分参考になる。

理想をいえば、文学研究においては、これら2つの方法をバランスよく組合わせて行うのがよいだろう。

しかし、こと、ディランと聖書という問題になると、伝記的側面への関心が強かったことは否めない。

ギルモーはそれに対し、聖書を純粋にディランの詩から参照されるテクストとして扱う。ゆえに、ディランの全キャリアにおける歌に差をつけず、すべてフラットに扱う。どの時期の歌であっても、フラットに聖書との関係を考える。

新約聖書学者であるギルモーがこのようなやり方をするのはなぜか。本来は、聖書は宗教的テクストとして、それに言及する人の信仰生活との関りを重視しがちである。

しかし、その〈宗教〉という側面をいったん脇において、テクストとしての聖書を考えることも可能ではないか。

そのようなテクスト本位のアプローチをしない限り、例えば、ディランの初期の作品に新約聖書への言及があることの説明がつかない。その時期、ディランはユダヤ教徒であったからである。

この問題は、もっと広く、言語の問題からも考えることができる。ディランが用いる英語という言語には、その骨組み自体に英訳聖書 (AV, 下) が組込まれている。英語散文文学の華としての AV「欽定訳聖書」が英語の慣用的表現のすみずみにまで入り込んでいる。

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[AV (Authorised Version, King James Version, 1611)]

だから、ヒンドゥー教徒のインド人も、英語の学習に英訳聖書を必須の教養としているのである。英訳聖書の知識がなければ、英語そのものが分らないからである。

そのような意味で、宗教という問題をいったん外したとしても、英訳聖書を英語そのものの理解のために参照する必要があるのは確かである。

いづれにしても、ギルモーのアプローチは、ディランの全作品についてフラットに聖書との関りを研究する。そこから何が見えてくるのか、見えてこないのか。

なお、ギルモーの研究書は2004年の刊行であるので、対象となるのはディランのアルバム '"Love and Theft"' (2001) までである。


影響の評価

ディランの作品に聖書がどれほど影響を与えているかを考えるにあたり、予め弁えておかなければならないことが、いくつかある。

まず、聖書は数ある影響のうちの一つに過ぎないことだ。他にも無数の影響を、作者も、読者も受ける。それこそ、〈目や耳を開くたびに影響を受ける〉('Open up yer eyes an' ears an' yer influenced') のだ。(*) 影響とはそのようなものであるから、影響をたどることは完璧ではあり得ず、複雑な作業になる。

(*) Bob Dylan, 'My Life in a Stolen Moment' in 'Lyrics, 1962-1985', Knopf, 1985, p. 72. ディランは続けて〈だから どうしようもない〉(目や耳を開いて影響を受けることは避けがたい) 'an' there's nothing you can do about it' と書いている。

それに、重要なのは、影響同士の間に相互作用が働くことだ。

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