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[英詩]ディランと聖書(5) ('I Want You')

※ 旧「英詩が読めるようになるマガジン」(2016年3月1日—2022年11月30日)の記事の避難先マガジンです。リンク先は順次修正してゆきます。

「英詩のマガジン」の主配信の3月の1回目です(英詩の基礎知識の回)。

今回はボブ・ディランの 'I Want You' (アルバム 'Blonde on Blonde' [1966] 所収、下) と聖書の関りを考えます。本マガジンでは、'I Want You' をいちど扱ったことがあります (2019年2月)。その際に、いろいろな説を検討しました。が、そのときにも扱わず、かつギルモーのような、ディランと聖書の関係を研究する聖書学者も指摘していない点を今回は考えます。結論を先に言えば、それは旧約聖書のコヘレトの言葉 (伝道の書、Ecclesiastes) です。いったい、どんな関りがあるのでしょうか。

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「ディランと聖書」の関りを探るシリーズの5回めです。これまでのまとめは下にありますが、ごく簡単にいうと、1回めは英語の骨格そのものに英訳聖書が入っている実例として 'What Can I Do for You?' でディランが聖句に応答していること、2回めは 'Blind Willie McTell' における分離技法、3回めは 'Sad-Eyed Lady of the Lowlands' における (古代の) 現代化技法、4回めは 'Disease of Conceit' における換喩的技法を扱いました。

今回は、それらのいずれとも違う、聖書の自由連想技法とも呼ぶべきものを 'I Want You' において考えます。

本マガジンは英詩の実践的な読みのコツを考えるものですが、毎月3回の主配信のうち、第1回は英詩の基礎知識を取上げています。

これまで、英詩の基礎知識として、伝統歌の基礎知識、Bob Dylan の基礎知識、バラッドの基礎知識、ブルーズの基礎知識、詩形の基礎知識などを扱ってきました。(リンク集は こちら )

また、詩の文法を実践的に考える例として、「ディランの文法」と題して、ボブ・ディランの作品を連続して扱いました。(リンク集は こちら )

詩において問題になる、天才と審美眼を、ボブ・ディランが調和させた初の作品として 'John Wesley Harding' をアルバムとして考えました。(リンク集は こちら)

最近、7回にわたってボブ・ディランとシェークスピアについて扱いました (リンク集は こちら)。前々回から、歴史的には、そして英語史的にも、同時代の英訳聖書と、ディランについて扱っています。

「ディランと聖書」シリーズの第1回でもあげましたが、ディランと聖書の問題を考えるうえでの基本的文献は次の通りです。

(1) Bradford, A[dam]. T[imothy]. 'Yonder Comes Sin' [formerly 'Out of The Dark Woods: Dylan, Depression and Faith'] (Templehouse P, 2015)
(2) Cartwright, Bert. 'The Bible in the Lyrics of Bob Dylan', rev. ed. (1985; Wanted Man, 1992)
(3) Gilmour, Michael J. 'Tangled Up in the Bible' (Continuum, 2004)
(4) Heylin, Clinton. 'Trouble in Mind: Bob Dylan's Gospel Years - What Really Happened' (Route, 2017)
(5) Karwowski, Michael. 'Bob Dylan: What the Songs Mean' (Matador, 2019)
(6) Kvalvaag, Robert W. and Geir Winje, eds., 'A God of Time and Space: New Perspectives on Bob Dylan and Religion' (Cappelen Damm Akademisk, 2019) [URL]
(7) Marshall, Scott M. 'Bob Dylan: A Spiritual Life' (WND Books, 2017)
(8) Rogovoy, Seth. 'Bob Dylan: Prophet, Mystic, Poet' (Scribner, 2009)

これら以外にも、一般のディラン研究書のなかにも聖書関連の言及は多く含まれています。それらについては、参考文献 のリストを参照してください。

※「英詩が読めるようになるマガジン」の本配信です。コメント等がありましたら、「[英詩]コメント用ノート(202103)」へどうぞ。

このマガジンは月額課金(定期購読)のマガジンです。月に本配信を3回お届けします。各配信は分売もします。

英詩の実践的な読みのコツを考えるマガジンです。
【発行周期】月3回配信予定(他に1〜2回、サブ・テーマの記事を配信することがあります)
【内容】〈英詩の基礎知識〉〈歌われる英詩1〉〈歌われる英詩2〉の三つで構成します。
【取上げる詩】2018年3月からボブ・ディランを集中的に取上げています。英語で書く詩人として新しい方から2番めのノーベル文学賞詩人です。(最新のノーベル文学賞詩人 Louise Glück もときどき取上げます)
【ひとこと】忙しい現代人ほど詩的エッセンスの吸収法を知っていることがプラスになります! 毎回、英詩の実践的な読みのコツを紹介し、考えます。▶︎英詩について、日本語訳・構文・韻律・解釈・考察などの多角的な切り口で迫ります。

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これまでのまとめ

シリーズの (1) はボブ・ディランと聖書のことを扱うにあたり、いくつか実践的に知っておいたほうがよいことも述べました。簡単にふりかえると、

英語の骨格そのものに英訳聖書が入っている。聖書由来の英語は多い(例:King of Kings, the servant of the servants)

欽定訳聖書 (AV) はシェークスピアと同時代の初期近代英語が用いられる

・聖書を用いたのがその人の信仰心に発するのかどうかは、詩の解釈を左右する

・ディランがはっきりとキリスト教に改宗したと見られる1979年頃までの作品にも、新約聖書を含む聖書への言及は少なくない

・ディランの場合、イエスが人生に登場する時期から、はっきりと霊的生活が変わったと思われる。それの音楽への反映は、その少し前の時期、すなわち、アルバムでいうと 'Street-Legal' (1978) の頃から少しづつ現れる

・英詩の中のある表現が聖書由来であることに気づかないと、その背景をなす文脈に目が行かず、まったく詩の景色が分らないことがあり得る。その意味で、聖書(の英語)は注意を払っておく必要がある

・アルバム 'Saved' (1980) 所収の 'What Can I Do for You?' は、ディランと聖書の問題を考えるうえで恰好の歌

・この歌が教えてくれるのは3点

1. ディランの聖句の現代化
2. ディランの聖句への応答
3. ディランの歌の組立て

・ディランは聖書の「ことば」そのものでなく、聖書の「精神」を重んじているといえる。ゆえに、ギルモーのような聖書学者の分析眼よりも、リクスやグレイのような文学的感性のほうが、ディランと聖書の関わりを見るには必要かもしれない

シリーズの (2) は、'Blind Willie McTell' を、聖書との関りで考えました (アルバム 'The Bootleg Series, Vol 1-3: Rare & Unreleased 1961-1991' [1991] 所収)。

・聖書テクストを最初の連と最後の連とに引離して配置するという方法を使っていると、リクスが指摘 (「分離技法」とでも)

・1連の 'this land' ということばに着目。ウディ・ガスリーの連想だけでなく、聖書的な語句とみる。Cruden のコンコーダンスで聖書における文脈を調べる

・旧約聖書で 'this land' が 'seed' と共起している。「この地」を「(あなた[がた]の) 子孫」に与えるという神のことばの文脈である

・'Blind Willie McTell' の1連に 'this land', 5連に 'seed' が出てくる

・This land is your land (ガスリー) が希望を抱かせることばであるとすれば、This land is condemned (ディラン) は気を萎えさせることばである

・corruptible seed は腐敗への傾きを持つ人々を思わせ、絶望的にみえるが、希望がある (ペトロの手紙一 1章23節に接続することによって)

・ペトロの手紙によれば、神の言葉という、朽ちない種 (incorruptible seed) によってあなたがたは新たに生まれた (born again) (ディランは1979年頃にキリスト教の born-again [新生] 派に改宗したとみられる)

・God is in His heaven and we all want what’s His の解釈はむずかしい

・われわれ人間は、自分のものでない、神の天 (what’s His) を望んでやまないのか、それとも、われわれは神の望み (what He wants, His wish) を望んでいるのか。この両義性はディランの真剣な問いかけを反映する

シリーズの (3) は、'Sad-Eyed Lady of the Lowlands' を、聖書との関りで考えました (アルバム 'Blonde on Blonde' [1966] 所収)。

謎の多い大作であるが、次のコーラスは特に分りづらい。

Sad-eyed lady of the lowlands
Where the sad-eyed prophet says that no man comes
My warehouse eyes, my Arabian drums
Should I leave them by your gate
Or, sad-eyed lady, should I wait?

3連の冒頭の行 The kings of Tyrus with their convict list を補助線におき、エゼキエル書の文脈を視野に入れることで、やっと考察が可能になる。その文脈で lowlands, sad-eyed prophet, no man, ware(house) などを聖書的な意味に解釈すれば、おぼろげに像が見えてくる。

sad-eyed prophet(s) はエゼキエル書 24章16節を考えに入れると理解できる (yet neither shalt thou mourn nor weep, neither shall thy tears run down)

no man はエゼキエル書 44章2節などを考えに入れるとその重いひびきが理解できる (This gate shall be shut, it shall not be opened, and no man shall enter in by it)

lowlands はエゼキエル書 26章20節を考えに入れると理解できる (When I shall bring thee down with them that descend into the pit, with the people of old time, and shall set thee in the low parts of the earth, in places desolate of old, with them that go down to the pit, that thou be not inhabited)

・コーラスの次の2行は聖書的な絵の中に、未知の女性 (Sad-eyed lady of the lowlands) を置く。それにより、聖書の文脈につながる、別の世界が広がる。

Sad-eyed lady of the lowlands
Where the sad-eyed prophet says that no man comes

いわば「(古代の) 現代化技法」、あるいは見方を変えれば「(現代の) 古代化技法」とも言える

warehouse はエゼキエル書 27章16節を考えに入れると理解できる (Syria was thy merchant by reason of the multitude of the wares of thy making)。ここで wares は貿易用の商品のことであり、山のような品々を見るのに、「わたしの倉庫の目」(My warehouse eyes) を覗き込む以上にふさわしい場所があろうかと、リクスは指摘する

・リクスは「貪欲」(covetousness) の究極の対象が sad eye であるという。そのような魅惑をそなえた女性に対し、歌い手は下僕の位置にある

シリーズの (4)'Disease of Conceit' を、聖書との関りで考えました (アルバム 'Oh Mercy' [1989] 所収)。

・〈慢心という病〉のテーマは普遍的であるが、慢心が高慢に通じ、高慢が七つの罪源の初めに位置することから、聴き手はこの歌を罪、ひいては病と意識することは自然

conceit という語は、そもそも「病」の意があり、死に至る病である

disease には、精神の乱れの意がある

・最終連の an evil eyeマルコによる福音書 7章22-23節に由来。ここから、聴き手は慢心が軽いものでなく、悪につながり、死に至る病であることを感じ取る

・ディランは evil eye を用いることで聖書への引喩を行い、その句のに列挙された姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、冒瀆、高慢、愚かさといった諸悪の連想の網に引入れる。これは「換喩的技法」と呼べる

conceit は 'wise in his own conceit'「自分では賢いつもり」(箴言26章) につながる。これをディランは自戒をこめて意識 (ローマの信徒への手紙 12章16節にもある)


I Want You

今回は、'I Want You' を、聖書との関りで考える。

ディランは本歌で自由連想技法とも呼ぶべき方法を聖書を素材に行なっていることを具体的に見てゆきたい。「連想」の点では前回 'Disease of Conceit' で見た連想の網に似ている。が、そこでは換喩的技法を用いていた。つまり、隣り合うものどうしを網の中に入れていく方法だった。

が、本歌では、そういう隣接といった要件がない。自由に素材を用いている。体の中にひとまとまりの聖書の素材がたくわえられていて、そこから自由に引出し、連想を広げてゆくという手法である。したがって、できあがった歌を見ていても、元の脈絡は見えない。素材がどこから来ているかを知っている人にしか分らない。しかし、ディランの頭の中では、おそらく、元のまとまりを結びつけていた観念は、どこかにあるはずである。

本歌の解釈にあたっては、本歌が唄っているものと、その背後にある聖書的観念とが、どう関るのかということが問題になるだろう。

こういう自由連想的な技法を見つけるには、詩人が使いそうなレジスター (言語使用域) を知っていることが前提になる。シェーマス・ヒーニなど、現代詩人ではときどき、この自由連想的な技法に出会うことがある。


'I Want You' の内容

聖書との関りを考える前に、'I Want You' が何を唄っているのかを、確認しておこう。

一般に、本歌はそのコーラスで記憶されているだろう。I want you が4回繰返される。3回めは so bad が後につき、4回めは Honey が前につく。

 I want you, I want you
  I want you so bad
 Honey, I want you

この I want you (きみが欲しい) が、本歌の中心的な内容であることにおそらく疑いはない。だからこそ、リクスも本歌を 'Lust' (欲望) の項に分類しているのだろう。なお、音楽的には、コーラスに入るときの「ウェイン・モスの速射砲のようなギターの16分音符」(ウィレンツ) が有名。実際には8分音符の3連符だが (下の動画参照)。

動画リンク [Bob Dylan, 'I Want You' (Official Audio)]

本歌は、このコーラス以外に、4つのヴァースと1つのブリッジがある。

ぜんぶで3分ほどだが、3分では収まりきらないほどの多彩で謎めいた登場人物が出てくる歌である。が、軸になる人間関係だけでいうと、男2人、女2人がいる。「ぼく」が欲する「きみ」、「ぼく」のライバルである男、「ぼく」に心を寄せるが「ぼく」のほうではその気がない別の女、の計4人である。

今回は、そのコーラス以外の部分のうち、1連、2連、ブリッジにひそむ聖書的要素を見てみる。他の部分については、本マガジンの 既出記事 などをご参照ください。なお、詩テクストはリクスらの校訂版にもとづく。


1連

The guilty undertaker sighs
The lonesome organ grinder cries
The silver saxophones say I
 Should refuse you
The cracked bells and washed-out horns
Blow into my face with scorn
But it’s not that way, I wasn’t born
 To lose you

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