あなたの意見はなぜ認められないのか
生きることの難しさ
息苦しい社会
昨今の世の中を眺めていて感じることは、非常に息苦しいなということです。一方で、昔の私を振り返ってみると、こうしてきたのも自分ではないのか、という思いも同時にあります。
私たちの社会がなぜこれほど息苦しくなったか、と言えば色々な意見が多々増え、発言に自由さが増したことです。
強い意見、多数の意見には「そうかもしれない」と流されて、少数意見のその意味を考えずに大きな強い意見を『常識』としてしまう人が多いのだと思います。
しかし、その一方でそれは果たして正しいのか、間違っているのかがわからない、常識というものがあまりにもたくさんあり過ぎる、自分の自由な時間、自由な働き方、自由な価値観という概念だけが先行し、自由がいい、自由が欲しい、という欲しがる気持ちばかりが先走り、しかし、反面、自由というものがあまりにも漠然としすぎて、自分が為すべきことがわからないから、という人の方が多い気がします。
出口王仁三郎は、水鏡の中でこのようなことを書いています。
自然ありのままの姿
縦と横の働き
出口王仁三郎が所属していた大本教では経の仕組みと横の仕組みという機織りに見立ててこの二つが折り重なってはじめて物事が正しく働くようになる、という教えを説きました。
その経糸が厳霊であり、火の働きである、とされ、横糸が瑞霊であり、水の働きである、とされています。
この働きは、神霊界と呼ばれる世界にだけ実在するわけではなく、上記に書いてある通り、霊と体のしくみであり、目に見えない世界と私たちが存在している現実世界が折り重なってできているものであります。
【厳霊の教は、道義的であり、体的であり、現在的である。】とされているのが、私たちの社会での目に見える立場です。【瑞霊の教は道義を超越して、愛のために愛し、真の為めに真をなす絶対境】というのが、私たちの心です。
この二つが折り重なって、はじめて私たち自身の精神と社会というものが安定するのだ、と言っていると感じます。というのも、私たちの体は精神と肉体は繋がっていて、その肉体に起きていることは、見えない世界にもつながっているからです。
ですから、どちらかだけが存在しているわけではなく、どちらも同じように作用しているというつじつまを合わせて読んでいくと、若い頃にはわからなかったことがわかってきました。
自然で本質的な社会構造とは
縦社会と平等の本当の意味
現在、私たちの社会で繰り広げられる奉仕の心、人を思いやる気持ち、そういう気持ちによって色々な意見や思いを相手に伝え、励まし、時には切磋琢磨しあってお互いに向上させることが簡単にできるようになり、それがいいことである、みんながそう生きようとこの社会は動いています。
それ自体は大変美しい行為ではありますが、特に、若者に見られがちなのは《みんな平等》という【平等】という部分のみに視点を置きすぎ、どんな人とも友達のように接するのが正しいと思いこみすぎて、人間関係の調和に少々調和を欠いてしまうことを最近、私自身色々な方々とお話していく限り感じています。
一方で、私たちの精神と付随して必要な【瑞霊の教は道義を超越して、愛のために愛し、真の為めに真をなす絶対境】である、人を愛する気持ち、動物を愛する気持ち、自分の正しいと思ったことをやり遂げる強い気持ちという部分では、全体を通じて見て見れば、大人は到底かないません。
しかし、私たちの現実の社会というものに目を向けていくと、必ず人それぞれには立場や役割というものが存在し、この立場や役割というものを抱えて生きてかなければいけない、という、圧倒的事実は確実に存在しています。
例えば、体的とは「現実社会」です。
社会的にいえば社長であり、部長、課長、係長などの立場、家庭では、家長(世帯主)父親、母親といった風に、実際は目に見える役職であり、自分の立場や役割というものです。
家庭では、稼ぐ人、家を守る人、そういったそれぞれの立場というものが与えられており、その人しかできない権限があることは誰でも理解できると思います。
その秩序を守らないで、新人が社長の権限で物事を動かすことはできず、お金を動かすこともできません。もしそれをしたらクビか、信頼を失うか、犯罪者として突き出されます。
もちろん、家庭ではお金を稼いできた人の口座から許可なくお金を使えば、その家庭は破滅ですし、この秩序を放棄した家庭は必ずうまくいきません。
ですから、
【厳霊の教は、道義的であり、体的であり、現在的である。】
とあるのは、社会的立場である立場や役割を認識し、『立場をしっかりとわきまえる』という、ごく当たり前のことが実は必要であり、いくら自分が正しいからと言って、立場を超えて意見を言うことは本来できない、となり、立場を超えて意見を言うことがあったとしても、決定には従う、というのが基本になります。
そして、昨今ではこの『立場をわきまえる』ということの難しさも、上記に書いた通りの《自由で楽な社会生活》を望む人たちにとっては、大変息苦しい日本古来の古い考え方に思われると思います。
なぜなら、立場を利用して傍若無人な人間が過去にも現在にもたくさん存在しているからです。
昨今の社会が乱れているのは、この知性の欠如が問題で、責任を持つ人ほど人を愛する気持ち、動物を愛する気持ち、自分の正しいと思ったことをやり遂げる強い気持ちが大事だということを理解していない人が多いことが理由だと思います。
ですから、現在の社会の構造で真面目に生きて、これに従う人たちは非常に苦しんでいる人が多かったと思います。
縦社会の破滅は社会の破滅
一番必要な精神
私たちの社会には、実際このような古い常識が何百年、何千年も続いてきました。しかし、これらは今からの社会では消えていくかもしれません。
新入社員が強くなり、若者が強くなり、立場が曖昧になる会社が多く、私の住んでいる田舎でも聞こえてきて、会社、社会、国家というものが危うい未来が見えてきます。
これは日本だけではなく、世界的な問題でもあるのです。
これらの社会的立場や役割が無くなってしまった暁には、この世界は滅びるでしょう。なぜならば、実際に立場や役割が平等になって無くなってしまっては社会は成り立たないからです。
今の世の中のように、【肩書があれば偉い】という社会ではなく、【肩書はただの役割】と個人個人が明確にわかるようになるだけなのです。好きなことが仕事になり、誰かに自分の仕事についてバカにされることもなく、思いっきり好きな仕事をして生きていける社会に変わっていくだけなのです。
肩書がある人間に最も必要なこと
肩書があればあるほど責任が重くなります。この責任の重さの分だけ肩書のない人たちの人生を、よりよくするために、より深く【瑞霊の教は道義を超越して、愛のために愛し、真の為めに真をなす絶対境】を誰よりも意識すべきであり、立場を利用して傍若無人な人間にはなってはいけないのです。
自分の立場をわきまえる
社会に足を踏み入れたら理解していくこと
私たちの今の社会は実力主義と言われていて、言い換えれば【成果主義】とも取れますが、実際に成果主義、実力主義の社会では『自分が何か結果を出さなければいけない』という意識ばかりが強くなり、自分が持っている意見を出して認められたくなります。
若い人でエネルギッシュな人はこのような傾向がありますが、これは未熟な人が陥りやすい【うぬぼれ】です。自分では『正しい』と思っていることでも、入社間もないあなたの意見が認められるはずがありません、そして、正しくても認められない理由が確実に存在してます。
なぜ、あなたの意見が認められないのか
私たちが知るべき圧倒的事実
色んな人が正しいということを自分が【知っている】と思ってお節介にも口に出し、『私の言うことが正しいのになぜ聞いてくれないのか』と、上司である私の知り合いに入社間もない若い子が永遠と言ってくる、という話を聞きました。
私はこの話を聞いた時に「昔の私だな」と思いました。今も、油断をするとすぐにうぬぼれて【自分が知っているのだ】という気持ちで話してしまうことがあります。しかし、そういうのは当然、向こうも知ってる、『でもできない』ということもあるのです。
必要な努力とは
私たちには必要な努力があります。
会社(学校)で成果を上げる努力
忍耐力をつける努力
自分を向上させる努力
信用してもらう努力
勉強をし、我慢をすることを覚え、自分を成長させ続けることが必要だと、社会人になったらよくわかってくると思いますが、当時若かった私には足りなかった圧倒的努力が【信用してもらう努力】なのです。
信用してもらう努力とは
己を知る
あなたの意見が誰にも認められない、ということは恐ろしく人望がない、ということに他なりません。これは絶対に認めなければいけないのです。
例に出せばホリエモンが人望があるのは【必ず成果を出す、そして一切の責任を取れる】とみんなが理解しているからで、彼はそれだけの努力をする人だと認められているからです。
ですが、ホリエモンはあの人望を仕事で勝ち取ってきましたが、自分のしたいことをしていたら、人の役になってた、という稀有な例で、あの方は天性の人望を持っている、というにすぎません。
私たち凡人がホリエモンと同じようなことをし続けると破竹の勢いで人望がなくなっていくのです。なぜならば、ホリエモンのように意識が高い訳でもなく、お金に執着しているわけでもない、認められたいというだけの【凡人】が多いからです。
人望を得られるように努力する
人の為に何ができるか考えて生きていく
信用してもらう努力、というのは、自分がいくら仕事ができなくても【あの人がいたら明るくなる】とか、【あの人がいたら、部屋がいつもきれい】だとかでもいいのです。
それこそが人望を作ることになっていきます。その人望こそ、人を愛する気持ち、動物を愛する気持ち、自分の正しいと思ったことをやり遂げる強い気持ちとなってそれが人に影響を与える力になります。
ですから、認められる人になるためには凡人だとまずは認めることが始まりになります。
率先して他人のゴミを拾う、誰かを手伝う、誰かが苦労しないように細かいケアをして資料を提出する、などという心配りができる人になると、ホリエモンのように天才的な人徳を持つ人と同じような立場になれ、立場をわきまえて行動できれば、他の努力はほとんどしなくていい努力になります。
こういう細かいことに気を配れる人間になった暁には、将来的に必ず世界で必要な人材となるので絶対に将来困らないです。何故なら、【信用される】からです。これからの世界は今よりもっと【信用力】がモノを言う世界になります。
それが縦と横の仕組みで、これからのミロクの世です。
ですから、信用されない人間は信用されるだけの努力が必要なのでした。
信用力のある人間を【人徳のある人】と言います。
人徳がなければ、意見は絶対に認められることはありません。よって、人徳を養うために我々は様々な気配りがより必要で、勉強が必要なのです。
私たちには与えられた立場が存在する
与えられた仕事を忠実にこなす
一方でこの立場というものはただの現実世界での役割でしか他ならず、人間そのものには大変重要な働きがある、ということをもっと私たちは自覚するときではないか、と思います。
ですから、この行為を同時に意識して行わない限り、いくらお金を稼いでも、しあわせは体感できないのです。与えられた仕事に不満を言って努力をしない限り、人望が育たず、いくら本当は違う立場が用意されていたとしても、自分が幸せに働けるような、もしくは生きていけるような立場にはいけない。立場を与えられても、人望がなければ今の社会のように人を駄目にする
人望を育てる間は、悲しいかな、私たちは努力し続けるしかなく、責任が増せば増すほど、人に対しての慈愛が必要になる。
ですから、役割がない、立場が低い人たちは本来愛情を与えてもらわなけらば行けませんし、立場が強い人たちは、本来は与える側でなければいけないのです。
これがぐちゃぐちゃになってしまっているから、この今の時代が混乱しているのだと痛切に感じています。
世界がしあわせになるために必要なこと
この世界が幸せになるためには個々が色々な気付きを得て、自分なりにできることを精一杯行うように智慧を付けていくときではないか、と私は考えています。
智慧とは『自分の幸せについて考える』です。
徹底的に幸せになることを考える
自分について深堀してみる
今まで書いていることと矛盾していますが、今は、他人よりもまず、自分を徹底的にしあわせにしなくちゃいけないと思います。今すべきことは、自分がどうしたら認められるか、ではなく、自分をどうやったらしあわせにできるかを考える時、だと思うのです。
あまりにもこの社会では、現実の仕組みばかりがフォーカスしすぎて、他人に消耗されるような人生を【当たり前】と思い込み、無理やり人に合わせて笑ったり、自分が楽しくない仕事や学校に行き、不満足に生きるしかない社会になってしまっているのです。
どんな立場の人も、今は霊的に疲れ果てているのですから、人のことを心配している時ではなく、どうやったら自分はしあわせになるか、を徹底的に考えて、しあわせになるために「幸せとは何か」を、現実的ではなく、自分の心で考えていくときだと思います
みながしあわせになるために、自分の幸せを考えよう
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