映画『人魚の眠る家』ノート

 映画『人魚の眠る家』を観ました。脳死と臓器移植と子どもの死を受け入れられないそれぞれの親の割り切れない感情、ひいては社会問題を扱った重いテーマでした。
 1997年にわが国で「脳死・臓器移植法」が成立しました。その後、何度か改正され現在に至っています。しかし、当初予測されたほど臓器移植(特に心臓)は現在に至るも進んでいません。
 法案の一番の争点は、「脳死」を〝人間の死〟と、認めるか認めないのかでした。議会制民主主義と政党政治を基本とするわが国では、法案の賛否には党議拘束をかけるのが大前提ですが、この「臓器移植法案」では各政党は「人間の死に関わる問題であるから、各議員の判断に委ねる」として党議拘束を掛けませんでした。
 従来の伝統的な人間の死の判断は、「三徴候説」いわゆる呼吸停止、心停止(心肺停止)、瞳孔散大というもので、医師はそれを判断基準としていました。しかし、終末医療が発達し、人口呼吸器の発達によって、呼吸は機械が動いている限り停止しないようになり、心臓も鼓動を続け、血液も全身に回るようになり、身体の機能は働き続きます。
 例えば水に溺れて呼吸できず、酸素が脳に供給されなくなり脳は死んでも、(脳死の判断にはこれまたいろんな説があるのでここでは省きますが)救命措置がうまく行けば人工呼吸器によって脳以外の身体は生きている状態と変わらないようになります。
 これが脳死状態で、この段階では心臓は動いているので、心臓移植が可能になります。
 身体を触っても血が通っているので温かいのですが、自発的に身体が動くことは反射運動以外にはありません。脳は死んでいるので当然意識はありません。
 人工呼吸器を外せば、遅からず心肺停止に至ります。
 私の結論を言えば、脳死は不可逆的なもので〝人の死〟だと考えます。ですので、脳死状態になった時には、私は人工呼吸器は付けてもらわない(いわゆる延命措置の拒否)ことにしています。しかし、臓器移植(特に心臓)に賛成するかと言えば、私は反対です。心臓移植で助かる命といいますが、長生きした例は少ないのです。角膜(死後移植)や腎臓、肝臓(ともに生体間移植)などは許されると思いますが、心臓だけは私はやるのももらうのも反対なのです。
 心臓移植賛成論者と論争して論破する自信はありませんし、感情の問題としてしか答えられません。
 女の子が生き返って母親にお礼を言う場面(夢)では、不覚にも涙が滲みました。
 〝人の死〟――これは脳死だけでなく、尊厳死、安楽死を含め、人間にとって永遠に解決不能な課題でしょう。
 なぜならエピクロスの言うように、「私たちが生きているときには、死はその私たちのもとにはないし、その死がやってきたときは、私たちのほうはこの世にはいない」からです。

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