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『生成と消滅の精神史』ノート

下西風澄著
文藝春秋刊

〝心〟や〝意識〟あるいは〝精神〟とはなんだろうか。ある人は脳の働きの表れというかもしれない。いや、ほとんどの人がそう思っているのではないか。

 著者はアルベール・カミュの、『シーシュポスの神話』の一節――「ぼくの心にほかならぬ心、それですらぼくにとっては永遠に定義不能のままだろう。」――をエピグラフとして記している。

 著者はこの本の序章〈心の形而上学とメタファー〉で、ミシェル・フーコーの『言葉と物』の次の文章を引用している。

〈「人間」はたかだか200年足らず前に生まれたのだと言って、思想界を騒がせた。フーコーにとって人間とは、単なる生物学的存在ではない。あらゆる生物種のうちの一つとして人間=ホモ・サピエンスが存在するのではない。〉

 そして、著者は、人間はある特定の時代の特定の知識形態と制度が生み出した特定の存在の在り方だという。
 この文章だけでは分かりにくいが、逆からいえば、私たちが持っている知識の形態や生きる環境、制度に支えられた存在である人間は、特定の時代の知識や制度が終わるとともに消えてしまう存在だということだ。

 確かに筆者のこれまでたかだか70年の人生の中で、身の回りの環境は大きく変わった。その端的な例が、コンピュータと携帯電話であろう。いまとなっては、この二つが存在しない世界や環境は想像もできない。
 コンピュータや携帯電話がまだ出現していなかった頃、どうやって仕事をしていたのだろうかと考えを巡らせても、僅か30年ほど前のことなのに思い出せない。仕事の量の増加だけではなく質も変わってきたことだけは感じる。
 もちろん、パソコンやインターネットがまだなかった時代と今とでは、人間の行動や思考だけではなく、企業の領域や在り方なども大きく変わっている。ということはそこで働く人間も否応なく無意識的に変わらざるを得ないわけだ。

 さらに、インターネットで世界中のあらゆる情報(誤った情報を含む)や知識(明らかに誤った似非知識を含む)が簡単に手に入る中で、私たちの思考形態は大きく変わりつつある。さらに生成AI(Artificial Intelligence)の発達は私たちの存在意義さえも失わせる危険性まである。

 著者は終章でこのように書く。
〈現代では労働は「非物質化」(知識・情報・情動・コミュニケーション)され、グローバルな帝国は領土的で物理的な支配よりもむしろ、アメーバ状に張り巡らされたネットワークを生活の隅々にまで浸透させ、非物質的な情動やコミュニケーションを通じて、微分化された指令群として私たちの脳と身体を支配する。〉

 私たちはもう考える必要はないのだ。思考はネットワークを通じたAIのアルゴリズムに委ねられているのだ。ネットバイアスやフィルターバブルが私たちの認知を狂わせてしまう。それも知らず知らずのうちに……だ。

 著者は、いまの社会の問題の核心は、「心を持つことのコスト」に起因しているという。自分で自分の意思決定をすることのストレス、AIもインターネットも、宗教も、資本主義も、あるいはメディアと連動した民主主義さえも、いかに心のコストを代替する装置としてうまく機能するかという覇権争いをしていると指摘する。
「意思決定」を「自分の考え」に置き換えたら分かりやすいだろう。
 私たちは昔から心を一個の個体で所有していたのではなく、自然や神々という膨大なネットワーク上で分有してきており、それが現代では、AIやインターネットや資本主義を通じた匿名的なシステムと分有するのは必然なのだという。

 いまの「ChatGPT」に象徴的されるように、AIへの欲望や期待というのは、精神を持つことのコストに耐えきれない人間たちの精神のアウトソーシング(外注)なのだ。

 ここまで本書の概略に触れた。この本は意識や心を巡る哲学史となっており、このような概略だけでは、著者に失礼だとは思うが、筆者の問題意識に沿って捉えたのでお許し願いたい。

 本書は2部構成となっており、第1部は西洋編で、〈心の発明〉〈意識の再発明と近代〉〈綻びゆく心〉〈認知科学の心〉を、それぞれソクラテスやデカルト、カント、フッサール、ハイデガーなどの代表的な哲学者の思想に添って心と意識の捉え方の違いや変遷を辿っている。
 第2部の日本編においては、第5章〈日本の心の発生と展開〉で、神話の起源と、万葉集の「見ゆ」から、200年を隔てての古今和歌集の「思ふ」に見られる単なる語彙の変化ではなく、その奥の心の変化。第6章では〈夏目漱石の苦悩とユートピア〉として近代的自我に対する夏目漱石の苦悩、第7章では〈拡散と集中〉と題して精神の歴史は拡散と集中の往復運動であったと書いている。

 人間は取り巻く人工環境に支配され、思考形式や意識、さらには精神や心まで大きな影響を受けており、私たち今に生きる人間は変容していく(決してよい方向だけではない)ことにいまさらながら気づかされた。いわば、時代が変わると人間が人間を滅ぼす。それは決して年代の違いだけではすまされない問題だ。脅威はAIではなく人間自身に内在しているのだ。

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