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因数分解と化学変化

漠然とした悩みはいつも視界の片隅にある。そういえば人生で「悩んでいない」時間などない気がする。
10年前の29歳は働きすぎて急性肝炎になり今後どうしたらいいのか悩んでいたし、さらに10年前の19歳は後期試験に受かってようやく入れた大学に意味を見出せず悩んでいた。

「悩みたい人は悩みたいから悩んでいる」と有名な自己啓発本で読んだとき、身も蓋もないこと言うなよ…と思わず空を見た。
一方で間違ってはいないのかもしれないとも思う。悩んでいるときはだいたい視点の置き場所が悪くて手元にあるものへ目が向けられていない。

その昔、大変お世話になった女性上司の口癖は「因数分解しなさい」だった。職場でトラブルが起きたり、クライアントと揉めたり、助けを求めるとまずはそう突き返された。

要は、使える公式に当てはめなさいって意図で、さらにざっくり言うと「もっと噛み砕きなさい」。

漠然とした悩みのままだと解消のしようがないから、もっと細かく分解する必要がある。
たとえば私世代のあるある「仕事がたいへん」「育児がしんどい」ではまだ荒い。「仕事における収入と労働のバランスがおかしい」「育児によって一人の女性としての個性を失いそうで怖い」ぐらいまで落とし込んで、ようやく解決に向けて手を付けられる。

悩みといえば、書くことにまつわる悩みも普遍的だ。
職業柄、たくさんの「書きたい人」と出会ってきた。目的やスタイルは様々で、ライターとしてやっていきたい人もいれば、起業家として言葉を残したい人もいれば、個人の記録用にただ記したい人もいる。

一方で、同じぐらいたくさんの人が止めていくのも目の当たりにした。私が知っているプラットフォームで書かなくなっただけで、もしかしたら他の場所で書いているかもしれないけれど、だいたい止めてしまう前のトーンとかペースでわかる。

書いたって、書かなくたって、その日、明日、明後日、の人生は何ら変わらない。一つ記事を仕上げるのは容易じゃない。むしろ時間を要するだけ、損をしている気分にもなるかもしれない。


ただし、続けた人だけが知っている。粒感は大小あれど「書いていてよかった」と思える瞬間が幾度となく訪れることを。

続けれられない人の悩み相談を受けたら、まずは一緒に因数分解をする。目的が定まらないのか、時間が取れないのか、他に気がかりがあるのか。そんな中で、ある一定の頻度で出てくる言葉が「手応えがない」だ。このまま書いていて何になるのか、人生にとって意味があるのか、見えてこないという。

うん、その気持ち痛いほどわかる。私だって「何」も「意味」も見つけられていないし、ましてや他人のそれに対して答えを提示したりできない。我々は、どうしてそんなに時間を使ってまで書くのでしょう、と壮大な問いへと突入する。
わかりやすい結果とか実績とかどうしてもすぐには手に入れられにくい一方で、ビュンビュンと高速で結果を出す人だっている。

残念ながら、たぶん私は書かなくたって生きてはいける人間だ。それ自体が人生そのものだと言う人を見かけると、そう思えない自分にがっかりしたりする。それでも、形を変えながら今はこうしてnoteを書いている。決して本数は多くないけど。

なぜ、なのかは分からない。始めた当初こそエッセイストに憧れもしたが、その夢は今となっては少し遠い。ただ一つ、心に留めている指針がある。

化学変化を楽しむ

長らく書き続けていると、必ず変化が起こる。純粋に文章力の上達だったり、新たなジャンルとの対峙だったり、同じ志を持つ仲間との出会いだったり、仕事をいただくきっかけだったり。
渦中にいるとなかなか見えないもので、ふっと顔を上げるといつのまにか見慣れぬ景色が広がっている感覚に近い。これは続けた者だけが得られる現象だと思う。

私の中で、どうやらただ書いているだけでは強い化学変化は起きないらしい。読まれた経験、人との出会い、これらの与える影響が大きい。
DMで言葉を交わす人、Twitterでじゃれ合う人、お互いそっと見守っている人、オンラインで会話する人、交流の仕方や頻度は様々だけれども、繋がっている方々の存在や文章は、思想や感情へと多大な影響を与えていると思う。

日常の「書く」周りはだいたい平穏以下だ。凹凸を繰り返しながら淡々と書いているか、能力の無さにひたすら落ち込んでいるか。

それでもどうにかこうにか踏ん張って続けていると、時々とびきりのご褒美が届く。

深澤佑介さんが書いてくださったミスチルnoteは、始めて、続けてよかったと心から感じさせてくれる贈り物だった。
他人のために多大な時間を注げる人を私は無条件に尊敬している。ふだんは内側に押し込めている弱い部分を掬い取ってもらえたのも本当に嬉しかった。


もう一つ。2020年、しんどい日々を支えてくれたアーティストを私なりに文章で残したいと思い立ち書いた投稿で、思いがけず光栄な賞をいただいた。
プロの方がくださった講評は、今後の道標にしようと思う。情報のリサーチスキルや淡白と言われる文章だって持ち味にしていいんだと。


自らが何者かになるのではなく、ただ主役の魅力を引き出す黒子に。そう意識した途端にこんな賞をいただけるのだから、人生って不思議。

このお知らせを受けたのは、ちょうどある原稿を納品した直後だった。まさか私が仕事で音楽に関する文章を書くようになるとはnoteを始めた頃は想像もしていなかった。


ただ、選ばれない悲しみにどっぷり浸かったときも、書き手としてのアイデンティティの無さに失望したときも、どういうわけか私のリスタートは音楽の記事で。たったひとつを追求しながら生きる彼/彼女らはいつでも憧れの存在であり、人生の支えなのだった。

これまで書いた音楽の記事がもたらしてくれたご縁。精一杯やったつもりだが、率直に言って力の無さを痛感せざるを得なかった。久しぶりに、強烈に、もっと文章が上手くなりたいと思った。

書き続けたからこそ生まれた化学変化。数ヶ月後、一年後、はどうなっているのかもはや見当もつかない。
でも、私はその都度形を変えながらも未来の自分へ書くバトンを繋ぐのだろう。

ひとり、またひとりと好きな書き手さんがいなくなる。Twitterをやっていない人であれば、もう言葉すら交わせない。なんと儚い関係性なのかとびっくりする。
もし私が行方不明になったら、20年も音信不通の中学同級生のほうが見つける可能性は高いぐらいには儚い。何を言っているのかちょっと分からないけど。

夢や目標にスキルと心が追いつかない時もある。誰かの栄光や勲章に目が眩む時もある。だけど、言葉や文章を生み出した分だけ、それを誰かと交わした分だけ、内側では確実に変化している。それ自体を楽しめたら、きっと強い。

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