言葉や文章のボタン
書いても書いても、これは真ん中じゃない。そう思うときがある。一瞬ではなく、割と長い期間。
今がまさにそうであり、困ったなぁと思いつつ、その状態をアウトプットしてみようとこれを書いている。すでに仕上げたnoteが4つほどあり、サムネイルまで設定したのにどれも公開する気持ちに至らなかった。どうしても芯を捉えている気がしないからだ。
完成度の問題じゃないから困っている。いやはや考えすぎだから、つべこべ言わずポチッとせえよ、ともう一人の自分がけしかける。気が乗らないんだから無理やり投稿しなくてもいいのでは、とまた別の自分がささやく。
「真ん中じゃない」の意図は多様であり、いま一番書きたい内容ではないとか、この構成はなんか違う気がするとか、心ここにあらずな感じが否めないとか、ありとあらゆるパターンが存在する。
厄介なのは、原因が自分でもいまいちわからない点だ。真ん中じゃないモヤモヤは溜まるのに、何を改善すればいいのか掴めない。
普段は、だいたい一番書きたいことを書いて、ころんと脳の外へ出している感じ。するとまた新たに書きたいことがむくむくと膨らむ。ころん、むくむく、ころん、みたいに。伝わらなそう。
となると、一番書きたいことが書けていないから詰まっている可能性がある。それはなんだろう?書きたいことを書いているつもりで4つ仕上げたぐらいだから、もうわからない。だめじゃん。
書き終えた文章も、着地する場所やパーツの組み合わせを間違えたような気がしてならない。ブラウスのボタンを掛け違えたみたいな心地悪さ。しかもそれがあんまり似合ってもいないのだ。
こういうときは一体どうしたらいいのか?書きたいネタはたくさんあるから、公開にこだわらずに書き続けたらいいのか?それとも割り切ってインプットに務めて、未来への肥やしを増やしてたらいいのか?
そういえば以前、PlayStationのCMソング「POP SONG」をリリースした米津玄師が、インタビューで2021年を振り返ったときに「去年はここ10年の中で一番ミュージシャンとして何もしなかった年だったと思います」と語っていた。
では何をしていたかと言うと、映画ばかり観ていたらしい。こんなフレーズが印象に残っている。
異分野からのフィードバックか…と思った。ふだん在宅仕事でも文章を取り扱う機会が多い私は、もしかしたらインプットの範囲がすごく狭く、足りなすぎではないかと懸念したのだった。活字以外に、どっぷり浸かってみるのもいいかも。
とはいえ、ひとたび外へ出ればここはアメリカ。10年暮らせば日常だが、広がる景色、異文化交流、教育事情は、すでに刺激的ではあるはず。
だんだんとリアルイベントが増え、常に気を回す必要性に迫られている。頭がとっ散らかっているのもあるだろう。何年住んだって英語の書類を読むのは面倒くさい。
あとは、ここ最近、自分が発する言葉の支離滅裂さや、文章に関する読解力の難しさに、思いっきり心を削られたのも要因だと思う。
もともと歌詞やストーリーが好きではあったけれど、本格的に書くようになったのは、直接相手に伝えられない気持ちを表現できる、という理由からだった。
つまり、私にとって言葉はどこまでも誰かに何かを伝えるためのツールであり、そこで強い摩擦が起きると、急速に意味を失ってしまうのである。
と、仮説を立ててみたが、書き始めたきっかけがそうだっただけで、今では心象描写や景観描写も楽しんでいる。人とのコミュニケーションだけではなく、自分との対話のために書いている。
掛け違ったボタンを直すには、どれぐらいの時間を要するのだろう。もしかしたら長期戦かもしれないし、明日にはサクッと直るかもしれない。
いずれにせよ、つまりはアウトプットの時期じゃない。オリーブを育てろという潜在的な暗示だろうか。
とりあえず勢いで書いてみたら、まとまりのないまま1600字になった。ジタバタしてる。何のオチも結論もないが、この時点で一番書きたいことだったからか、少しすっきりした。ころん。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。