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縁の下を生きる

いつだったか、高校時代から仲が良かった友人が「この曲めちゃくちゃ良いんよ」と勧めてきたのは槇原敬之だった。タイトル『僕が一番欲しかったもの』。

その子が好きなアーティストは安室奈美恵とかジュディマリとか、女子の憧れが詰まったような存在ばかりだったので意表を突かれた気がした。いざ聴いてみたら、歌われている内容がさらに意外だった。

歌の主人公は素敵なものを拾うんだけど、もっと欲しそうな人がいるからあげちゃって、それを繰り返していたら本当に自分が欲しかったものはその人たちの笑顔であるとに気付いた、というストーリー。

友人は割と学年でも目立つタイプで明るく、内省めいた発言を聞いた例がなかったので、その世界観と彼女が私の中ではすぐに結びつかなかった。こんな繊細な曲に心を撃たれるんだね、と新たな一面を垣間見ると同時に、本当に欲しかったものが分かったのに、マッキーの歌声がどこか寂しげに聴こえるのは何故だろうと思った。

話は変わり、我が家の5歳長男はしょっちゅう怒っている。要因はさまざまだが、ここ最近よく見かける姿は「ねぇ、何を描けばいいの!!!」だ。
白い紙をヒラヒラさせながら、描きたいのにアイデアが出ないからキレている。好きなキャラクターとか提案してみるけど「ちがう」となぜか叱られる。理不尽。

以前は「描きたいものがないなら別の遊びをしたら?」と呆れたり「そんなふうに怒るぐらいなら描かなくていい!」とキレ返したり、親としては赤点の対応をしていた。けれど、思うように絵が描けない彼がボロボロと涙を流す姿に「本気」を見て以来、ちゃんと向き合うようになった。

絵を描きたがる長男と、創作を楽しむ同志として付き合う。すると今まで気付けなかった彼の気持ちが見えてくる。

きっと魂が喜ぶものを探しているんだろうなぁ。

初めてストーリー付きの絵本を描き上げたとき。初めて平仮名でパパとママへ手紙を書いたとき。そのときの、心の底から溢れ出る達成感。みっちみち笑顔の高揚感。彼はまたあの感覚を求めているのかも、などと思うのだ。


その物足りなさ、分かる気がする。野心はあれど大志はない私は、世間に対する訴えなど特に見つからず、もうすぐ40代に突入するにあたってこれでいいのかとやや焦りにも似た気持ちがあった。

思えば25歳で情報誌の制作会社に入って以来、編集やライターなど発信にまつわる仕事をしているが、クリエイターというよりも会社員としての要素が強かった。悲観的なわけではなく、ある程度人から決められた枠組みの中で成果を出す方が向いているのだと思う。
ただ、どこか渇望感があるのも事実であり、noteを始めた当初の目的は自分なりの表現を見つけるトレーニングだった。

次第に、創作で評価される人たちへの憧れが強まっていった。自分もそれなりにやってみるけど、どこかチグハグな感じが拭えない。ピースは間違ってない気がするけど、最終的な絵が一向に見えてこない。だんだん目の前の景色さえも色褪せ始めた。たとえば手元にある仕事とか。

裏方として働く私にとって、作家やエッセイスト、記名ライターは羨望の存在だった。同じように作ったり書いたりする仕事をしているはずなのに、どうしてあちら側にいけないのだろう。嫉妬にも似た感情が渦巻く。努力が足りないのか。ただ才能がないのか。苦しい。何ヶ月も、そんな燻った状態が続いた。

そんなモヤモヤが溶解し始めたのは、何げない一コマがきっかけだった。

映画『キセキ -あの日のソビト-』を観た。GReeeeNの名曲「キセキ」が誕生するまでの実話をもとに作られた作品。リーダーのHIDE(ヒデ)を菅田将暉が、プロデュースを手掛ける兄のJIN(ジン)を松坂桃李が演じており、実質的な主役は兄のほうだ。

ミュージシャンとしてメジャーデビューを目指していたJINだが、なかなか花開かずメンバー間もギクシャクし始めていた。そんな折、音楽ではなく医療の道を歩んでいる弟・HIDEが趣味サークルのライブをきっかけにレコード会社の目に留まる。
JINはその事実に少なからずショックを受けるが、HIDEが持つポテンシャルを認め、彼のメジャーデビューに向けて全面的にバックアップする。物語の終盤、彼は友人にぽろっとこう吐き出す。

「人にはそれぞれ、自分本来の役割ってもんがあるんだよな。やりたいことのために必死こいて頑張るとかさ、いろんなもの犠牲にするとかさ、そういうのとは違う次元で世の中動いてんのかもしんねえな。要するによ、縁の下の力持ちってことだよ」
(映画『キセキ -あの日のソビト-』より)


脚光を浴びるのは自分ではなく実の弟だった。しかも眩いばかりの光量で。あちら側にはなれなかった無念や落胆、諦め、そしてどこか肩の力が抜けた安堵感。様々な感情が入り混じったこのシーンが、強く印象に残っている。

微笑みを浮かべて寂しそうにぽつりぽつりと話すJINの姿に心が震えたのは、自分も身に覚えがあったからだろう。音楽でも絵画でも文章でも何でも、表現を試みる者がぶつかる壁。自分なりにがんばってみても、注目されるのは一握りの人。圧倒的なスター性を前に、わずかな自信やプライドが木っ端微塵に打ち砕かれる。そんな経験は一度や二度じゃない。
だからこそ、彼のやるせなさに強く共感した。

それと同時に、これから生きるヒントを教えてもらった気がした。なぜなら、内側に葛藤を抱えながらも静かに現実を受け入れ、縁の下の力持ちとしてプロフェッショナルに徹するJINは、すごくカッコ良かったのだ。

表現の世界において表舞台に立つ人はやっぱり華やかだし、憧れも羨みもある。
けれど、支える側の生き方だって等しく尊い。ごく自然にそう思えたとき、自分の中にあるバラバラだったピースがカチッとつながった気がした。

「縁の下の力持ち」

私は普段、企業の委託編集者として、もしくは依頼ベースで、コンテンツ周りを作る黒子である。関わった媒体を公表することはない。noteではときどき音楽レビューを書いている。これも主役は歌い手や楽曲であって書いたのが私かどうかは重要ではない。

いずれも私個人はフォーカスされない。でも、どの取り組みも縁の下から支えているとは言えないだろうか。
自分自身に光を当てるのではなく、表舞台に立つ人を照らす灯りを調光している。そのために言葉や文章を書いたり削ったりしている。

魂が喜ぶものを探すのもすてきなことだけど、それよりいま手がけている仕事に誇りを持つほうが大切だ。
「縁の下を支えるプロフェッショナルになろう」と意識し始めたら、一気に霧が晴れた気がした。

もちろん表舞台への憧れは今でもある。
その気持ちを否定するつもりはない。
そもそも決め付けなくたっていいのだ。

メディア作りに携わって15年。自分なりに「成長」してきた。これからは「拡張」していきたいと思う。拡張という言葉には二つの思いを込めている。一つは、もっと強固に表舞台を支えられるようになること。もう一つは、自分にしかできない仕事の幅を広げること。

縁の下にいながらも、私らしさは出せるはず。これからもひっそりとメディアや執筆の世界に身を置いていく。
そのために、たくさんの表現方法を学びたいし、もっと自分を磨いていきたい。

最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。