だから、この夏は日記を書いた
温かいコーヒーが似合う朝になりつつある。子どもたちを幼稚園へ送る時間は午前7時半過ぎ。太陽はまだ登りきれていない。月の数字が8から9になっただけで、季節は律儀にコマを進め、空色は濃度を変えたようだ。
私は長袖をまとい、子どもたちにパーカーを着せる。秋が深まっていく。初めて雪国で過ごす冬の、序章が始まった気がする。
と、最初の数行ぐらい書いたところで息子がどしんと膝の上に乗ってきた。
「ぼくもやる!」
人生にママの役割があると、なにかを完遂することは本当にむずかしい。清々しい朝と疲れ果てた夜では、違う自分になっている。その中で一つの文章を仕上げるのは、パッチワークみたいだけれど、なるべく一つの世界を目指して書き終える。
この夏は、引っ越し日記を書いた。たくさん、と言いたいところだけど、振り返ってみたら、たったの6本。少ない…。改めて毎日更新している人はすごいなぁと思う。
noteを始めて3年目。このタイミングでなぜ日記だったのか。夏が終わった今、書き記しておく。
心が動く出来事があったから
サンフランシスコからシカゴへ引っ越した。10年住んだ場所を離れるのは、どうしたって私には大きな出来事。そして、寂しさを引きずりながらも新しい環境に順応していく自分も想像できる。めったにないことだから、記憶と感情をパッケージしておきたかった。シカゴは旅行でも訪れた経験がなかったので、初めて目に映る風景をどう感じるのか。渡米した当初の気持ちをもっと書いておけばよかったと後悔したので、今回は記録してみようと思った。
今を見つめるのが下手だから
背伸びしても届かなそうな段差に、えいやとロープ付きのフックをかけて、うんしょうんしょと登るような生き方をしている。少し、またはうんと先を見据えて、自分に足りない要素を補給する。つまり、未来ばかりを見すぎる。しかも、その原動力は過去の挫折やコンプレックスだったりする。見えないモノを見ようとして、知らないモノを知ろうとして、見えてるものを見落として。思い描いていた未来に、実はたどり着いていたりするのに。日記を書くと、今に焦点が合う。私にはそれが必要な気がした。
描写の練習をしたいから
今年はもっと描写の練習をしたいと考えていた。普段の仕事では、主観性よりも客観性の強い文章を取り扱う。そこで大切なのは分かりやすさだったりSEO観点だったりする。だから私の中で、心象描写も情景描写もまだまだ弱い意識があり、少しずつ克服したいと思った。二ヶ月前ぐらいに読んだ「【実践】小説教室」が面白くて。日記やエッセイといった身の回りについて書いた文章をもとに、視点をズラしたり話者を変えたり、スパイスを加えるだけで小説になり得るんだな、と。
とあれこれ言いつつ、最初は「日記を書いてみようかな」ぐらいの感じで、どうしてそんな気になったのか分解してみると、こんな理由だったというわけなのだけれど。
ただ、実際に書いてみて、想像以上に楽しさと奥深さを感じた。自由に書こうと決めながらも、少しだけ心がけていたのは、ただ出来事と思考を並べるだけにはしないこと。景色や感情を丁寧に感じ入って言葉に起こすこと。
自分が見たり感じたりした世界を文章にするのは、言うほど簡単ではないと思う。手癖のままだと平易な表現にしかならないし、どこかの小説から借りたような言葉はなんだか浮いてしまう。等身大で、ちょっぴり背伸び。そんな塩梅がいい。
そう考えながら書いていたので、引っ越し日記のシリーズが好きとか、風景や心象の描写が色鮮やかとか、コメントをいただいたとき、実はすごくすごく嬉しかったのです。
もう一つ、日記を書こうと思い至ったのは、ある人の存在が大きいのだけれど、ここで語り出すと想いが溢れんばかりになるので、いったん伏せておく。静かに、温かく、初期のなんてことない日記にも光を当ててくれて。書いてみようかな、と思わせてくれる存在に強く支えられていた。
どんな文章を書くにしても、自分の心が揺れ動く瞬間や大切な人との触れ合い、置かれている環境、目の前に広がる景色、それらを丁寧に見つめた時間と眼差しは、活きてくるはず。書いて、考えて、引き出しをたくさん作っておく。それこそが、いつかの物語に繋がったりするのかもしれない。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。