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私がアップデートされるとき

アップデートという作業が怖い。MacとiPhoneを使っているから度々その場面に遭遇する。イエスと言っただけで急に仕様がガラッと変わったり何かが重くなったりして、改善に向かうはずのそれは時々厄介ごとを生み出してくる。

だからいつもは避けるのだけれど、先日どうしようもなく求められてイエスを押した。次第に雲行きは怪しくなり、iPhoneは真っ暗になってとうとう動かなくなってしまった。ちーん。最新型なのに。 
私が何したっていうの。いつもこうだ。開くはずのフタも使えるはずのリモコンも私だけ作用しないことが多い。手の平からそれらを狂わす電磁波が出ているのかもしれない。なんというか、そんな私をまるごとアップデートしてほしい。

と書いていて、ふと思う。もし人間にその機能がついていたとしたら、果たしてイエスのボタンを押すだろうか。
私を形づくる色々な性質をアップデートできるとする。見た目、内面、脳、内臓、あらゆるもの。とりあえず健康的な体にはして欲しい。それ以外はどうしよう。顔面のアップデートもしたいけど、もはや私ではなくなる気がする。

もし何か一つだけ選べますという条件だとしたら、私の中の「センス」をアップデートしたい。ファッションやインテリアに活用する美的なやつ。昔からどうにも垢抜けないのだ。

だからいつも誰かの真似ばかりしていた。クラスに1〜2人、学年で数人いたセンスと名前の付いた卵から生まれてきたようなあの子の。校内で流行るあれやこれやの先頭走者。

中学二年生のときに同じクラスだったマミちゃんは、ある日まっしろな無地の靴下を履いてきた。その頃はワンポイントが主流で、いかに可愛いアップリケがついた靴下を手に入れるかが勝負だったにも関わらず、だ。
最初は無地なんて全然おしゃれじゃないと思っていた。しかし私の好みとは裏腹に無地人口はどんどん増えていく。いつのまにか確立されていたアップリケ=ダサいという圧倒的価値観。

私は随分と経ってからそれに気付き、ようやくインストールを開始する。無地が好きになる。アップリケなんてイモだ。無駄がないデザインこそ大人の象徴と言わんばかりに。
制服に頼っていた高校時代を終え、私服で通う大学ではセンス有る者はますます輝いてみえた。いつも周回遅れだった私はファッション雑誌をたくさん読むようになった。そっくりそのまま取り入れることぐらいしかおしゃれになる術を知らなかったから。

iPhoneは何をやっても真っ暗な画面から戻らなかった。いつのまにか時計は夜中0時を回り、途方に暮れて翌日の午前中にApple Storeの予約をした。

明くる日の外は想定していたより温かくて、身に付けていた赤いチェックのストールもUGGのもこもこブーツも要らなかった。
お店で迎えてくれたのはサンタクロースみたいに長い髭をこさえたお兄さん。「すごいね」と言ったら、ここまで伸ばすのに一年かかったと教えてくれた。意外と短いんだねとか冬はサンタになれるよとかポツポツと会話を進める。拙すぎる英語。それでもアメリカに来たばかりの頃より少しはマシ。

深夜に2時間格闘してもうんともすんともならなかったiPhoneは救済措置を受け始めてわずか20分で元に戻った。やっぱりプロに任せてよかった〜とお支払い額を聞いたら、修理代は取らないらしい。えっ、無料なの。最初にApple製品買ってからもう9年も経つのにそんなことも知らなかった。

めでたし、めでたしと言わんばかりに心が軽くなったので、3軒となりのカフェに入った。店内はやや年齢層の高いおじさま・おばさまがのんびり寛いでいて、シリコンバレーの成功者が住むらしいこの街の優雅さを物語っていた。空いていた二人がけのテーブルでパソコンを広げる。カフェでお仕事。おしゃれな私。

名前を呼ばれて取りに行ったラテはまるでビールのような出で立ちだった。泡まで再現されている。てっきりおしゃれなマグカップに注がれると思っていたのに。だってホットだし。

わはは。何だか楽しい。iPhoneは直ったし、外は温かいし、今日は金曜日だし、乾杯みたいだ。ラテで乾杯。店員さんはこんなことを面白がっているなんて露にも思わないだろう。私だって予想外。


その瞬間「あ、"ほんとう"が生まれた」と思った。
最新型iPhoneも、赤いストールも、UGGのブーツも、カフェでパソコンを広げる作業だって、多分よそからインストールされたやつだ。流行りだとか、何だとか。けれど、ラテで乾杯するのを面白がる感情は、私の内側から生まれてきた。借り物だらけの価値観。その中にある"ほんとう"。意図しない者と意図しない空間で生まれるユーモアは愛しい。他人から見るとたぶん何でもない。  

ファッション雑誌を読み漁っていたあの頃、どんなに頑張ってもちーっともセンスが良くなんてなれなかった。いつのまにか私はおしゃれよりも雑誌そのものを好きになっていった。ペラペラと自由に頁をめくる動作。美しく配置された文字とデザイン。いつも最初に読むのは、後ろのほうにあるエッセイやコラムだった。今こうやってカタカタ文字を打っていることは、きっと無縁じゃない。

日々、アップデートされている。自分が限りなく無意識に近い中で。何気なく生まれた"ほんとう"は、いつも視覚的な情報からじゃなくて手触りの瞬間から得られたものだった。小さな点。積み重なったそれはやがて線になり面になり、私の中に根付いていく。

最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。