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彼について考えたことで、私がわからないことがたくさんある。

何より言語でコミュニケーションを取れば8割がた、私たちは「大丈夫」だと思っていたけれど、実際はそうではなかった。振る舞いの部分。非言語の部分で、私たちはすれ違ったのだった。

驚いたことに、ふすまを閉め切ってしまうこと。密室状態にしてしまうことで、私の集中力はアップしたのだった。読書。勉強。眠ることさえそうだ。結局のところ。同居するという相手がいれば。良いのかもしれない。そう思ってしまうと。いったい「一緒に暮らす」というのは私にとってどういう意味をなすのかということがまたわからなくなってしまった。

会話してお互いの考えていることを伝え合うことはできるはずだ。二人とも相手の性格をわきまえているので、どういえば相手をいらいらさせるのか、何をどう言われるのが嫌かなどはもうわかっている。そのうえで、それでも、言葉でコミュニケーションをとり、相手が傷つくとしても自分の思いを伝えて理解を求める方法を探るということが私たちには必要だと思っていた。けれども、一緒に暮らして月日が経つにつれ、相手に理解を求める意識でありそれは相手への好意がエネルギーになっているがゆえの行為だったはずなのに、徐々にそれが努力を要する行為となり、その行為自体への関心が薄まっていく自分に少しずつ気づき始めた。

これは、彼から離れどき、ということを意味するのだろうか。いちど離れたら、元の状態に戻ることは難しくなるのだろうか。相手にとっても、私にとっても。

あるいは違う見方ができるだろうか。つまり、気心の知れた―というのは相手のふるまいが何を意味しているのか、無意味な行動、無意識の行為なのか、などが互いの非言語コミュニケーションだけでわかるようになっただけ―相手のいる気配を感じながら暮らすこと自体が、「慣れ親しんだパートナーと暮らす」ということになるのだろうか。

個人として一つの空間に仕切りを付けた場所で共存するという状態といえるのだろうか。それは肯定的に?否定的に?動物の生き延びる術として?

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