見出し画像

私とカナダとの出会い

私とカナダとの出会いは、ご縁というべきものかもしれません。

留学すると決断したのは私自身です。でも、
私が夢を叶えて教師になっていたら、
私が添乗員になるという選択をしていなかったら、
母がアメリカ留学だけはやめてと言わなかったら、
カナダ留学はしていなかったかもしれません。

私の今の人生は色々な選択をして「カナダ留学」という道にたどり着きました。そして「カナダ留学」という選択したからこそ、今の私の人生があります。


学生時代

厳しい家庭環境

私の父は明治1桁生まれの祖父に育てられたということもあり、とても厳しい人でした。家族内で父の言うことは100%。もし反対意見を言った時には、父から怒鳴られ、殴られるというのが日常茶飯事だったのです。

そのような環境だったため、物心ついた時から家にいる時はいつもビクビクしている状態。幼稚園の時から大学まで、毎日自宅に帰るのが嫌で嫌でたまらなかったことを覚えています。

夢は小学校の教師

私は幼稚園から小学生の時に時々イジメにあっていました。今まで仲良しだったと思っていた友人達から突然仲間外れにされ、ヒソヒソ話をされるのです。しかし、人前で話すことが好きだった私は、小学校の先生になりたい!と小学生の時から思っていました。

大学進学時に、教育大学に進学したいと両親に話すと「女性は短大を卒業して結婚するのが幸せ」だから教育大学なんてダメだと大反対されます。3人姉妹だった私たちは全員が中学から大学まで私立の一貫教育の学校に進学させてもらっていたこともあり、これも両親の愛情だったことは間違いありません。しかし、その時の私にはそれを愛情と感じることは出来ず、選択肢なく不貞腐れた感情のまま短大に進学しました。

進学先の学部は、高校時代の成績が良い人から選択できるシステムでした。ある程度勉強を頑張ってきた私は、花形といわれていた英文科を含めどの学部への入学も可能で、自分自身も英文科に興味があったのは間違いありません。ただ父の言いなりになるのが嫌で、お料理が好きだったこともあり家政科の食物専攻に進学。学校からも両親からも100回くらい「本当に食物専攻に行くのか?」と念を押されました。

すべてがつまらない

大学生活は本当に呑気なものでした。教員免許を取得するコースは選択したものの、教師になることは100%ないと思っていたため、毎日勉強することもなく、全く厳しくないフィギュアスケート部でなんとなく時間を過ごしていました。

自分の将来が全く見えなかったことに対して不安はなかったものの、情熱の矛先を見失っていたというのが私の短大時代だったように思います。また私立の短大に行かせてもらったにも関わらず、私が行きたい大学ではなかったこともあり、両親に感謝する気持ちを持つことが全くできていませんでした。今から思うと何が残念かというと私自身ですね。

社会人デビューは添乗員

自宅に帰らなくていい仕事

全くやりたいことが無かった短大時代だったので、就職先はなかなか見つけられませんでした。どの会社説明会に行っても「楽しくなさそうな会社ばかり」と何もできないくせいに、かなり上から目線の感想しか持っていませんでした。(今思うと、会社さんも私のような新卒は来てもらいたくないと思っていたことは間違いありません!)

そんな時に同じ大学の先輩のひとりが添乗員という職業についたことを発見!添乗員ってどういうことをやるんだろう?と私の好奇心がムクムクと湧き上がってきました。その先輩にお会いさせていただき、お仕事の内容をお伺いした時に言われたのが「ほかのどのお仕事とも全く違う大変さがあります」ということ。「この世の中に父と一緒にいる大変さ以上に大変なことはない」と思っていた私は、大丈夫です!と自信を持ってお伝えしました。そして、家に帰らなくても良いお仕事があるなんて、これしかない!と思ったんです。

添乗員という仕事

最初の添乗のお仕事は、四国4泊5日のツアーでした。大先輩の添乗員に同行し実践を通して添乗員とはどういうお仕事かを学ばせていただきました。そのツアーは、新幹線、在来線、フェリー、バス、飛行機を使うツアーで本当に多くのことを学ばせてもらいました。

中学から短大まで女子校で育ってきた私は、世間知らずも半端なかったと思います。昭和の時代だったので「接客」の常識が今とは全く違う中、自分の添乗スタイルを確立していくのに必死でした。その中には冷や汗が出るようなありえない失敗も。また反対にその時代だったからこそ心温まる経験も山のように体験しました。

添乗員の醍醐味

添乗員の醍醐味って何?と聞かれたら一般的には「色々なところに行けること」となると思います。確かにそれもその通りです。しかし、私はそれ以上に「人との出会い」だと思います。

ツアー中は、お部屋のことや、ツアーの対応のことで怒りだすお客様もいらっしゃいます。しかしツアー中に盛り返し最後には皆さまから「ありがとう」と言っていただけるように頑張りました。本当にその一言が欲しくて頑張っていたような気がします。お客様の中には心からの感謝を会社に伝えてくださる方やお手紙を下さる方もいらっしゃり、そこに遣り甲斐と一期一会の感動を感じていました。

またこの時の同期は40年弱だった今もかけがえのない友人です。お互いに添乗員だったので一緒にお仕事をしたことはないのですが、現在も硬い絆で結ばれています。

海外に出るカッコいい添乗員になる!

英語が出来ない

添乗員をはじめ2年半くらいした時だったと思います。中国に行くツアーがあるのでそのサブ添(サポーターとしての添乗員)をしないかと声がかかりました。「子供大使」というグループだったので、お客様は中高生で、責任者の大人が数人というグループ。初めての海外添乗にドキドキしながら同行しました。サブ添であったこと、中国というデスティネーションには現地日本語ガイドがいたことで、問題はありませんでしたが、日本とは全く勝手が違うことに大きな戸惑いがありました。

2回目の海外添乗は、ハネムーンのツアーでロサンゼルスとラスベガス。もちろんこれもサブ添です。このツアーでは英語が出来ないと仕事が出来ない、ということを思い知らされました。観光地では日本語ガイドさんがいるものの、送迎やホテルチェックインは添乗員がしなければならず、そんな簡単なこともスムーズにできない自分が情けなかったです。今後添乗員を継続するなら英語を学び、こんなツアーをバンバンこなす添乗員になりたい!と思った思い出のツアーになりました。

留学に大反対の両親

英語を最速で学ぶには留学、と思った私は、両親に留学したいことを話します。両親の反応は予想通り「大反対」。もちろん想定内です。そしてその対策として自分のお金で留学すると決断していました。添乗員のお給料は驚くほど少なかったのですが、添乗のお仕事をしているとお金を使う時がありません。友人と遊びたくても時間が合わないし、添乗中はお金を使うことはない。そのため3年弱で貯めたお金を全部使えば約1年くらい留学できると思い、留学先を調べはじめました。

私と同じように両親に大反対される方は少なからずいらっしゃるかもしれません。お給料が少なくても、使う前に毎月1万円ずつ貯金するだけでも3年で36万円、5年で60万円。1ヶ月の留学は可能です。1ヶ月で英語力は上がらないと思われるかもしれませんが、英語に慣れること、人生や自分の価値観が変わることは間違いありません。是非、自分自身に投資してあげてください。

留学先はカナダ!

両親に大反対されていた留学ですが、母だけに話した時に「アメリカ以外の国にしてね」とそっと言われました。母にとっては、アメリカは危ない国という印象があったようです。留学する学校はおろか国や都市も決めていなかった時だったので、母の意見は素直に聞き入れました。

では、どこにするか。
私が留学を検討していた時は、イギリスの学費は普通だけれど生活費が高く、イギリスが候補から消えました。オーストラリアに興味があったのですが、ある方からオーストラリアとニュージーランドは英語に訛があるよ、と言われ、何も調べずにそれを鵜呑みにしてしまい、消去法でカナダが残りました。

寒がりな私は「カナダか~」とかなり躊躇したのを覚えています。でもバンクーバーはかなり温暖で東京くらいの気候と知り、留学先はバンクーバーに決定。その時のレートは今も忘れられなく、C$1.00=138円。今思うと、カナダドル高すぎ!と思うのですが、消去法だったので深く考えずにバンクーバーを選択しました。

まとめ

後で振り返ると人生の選択は本当に面白いですよね。「あの時あの選択をしたから」という場面は山のように出てきます。そしてその時の選択が人生すべてに関わってくる・・。

私が色々な選択をしてきた中でただひとつ言えることは「自分で決める」ことです。もし両親や誰かに勧められて選択した道が満足できなかった時、私達は両親や勧めてくれた人を責めれないし、責めたところで自分の人生は自分でしか変えることができません。

また、有利不利で選択するのではなく「自分が本当にやりたいこと」を選択すること。有利不利で選択すると、あの時本当は別の選択が良かったんだと後々後悔することが出てくるかもしれません。

皆さまの人生の選択が、大きな幸せに繋がっていきますように。


#あの選択をしたから

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?