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判断基準はどこにあるのかという話。

流行っているから、人気だから、みんながいいっていうから、とある雑誌のランキングで上位に入っているから。

私がなにかを選ぶとき、その判断基準はいつも自分ではない誰かだった。

職場の人や知り合いといく飲み会でも、「私も同じので」「好きなの選んじゃってください」そんな言葉を言いがち。

たまにメニューをみながら「これとか美味しそう」「良さげじゃない?」と言うこともある。でも「いいね」「美味しそう」といった共感の返し言葉が聞こえるだけで、実際の注文は他の人が主張したものになりがち。

「どうしてもこれがいい!ねえ、いいよね!」そう口する人に対して、「いいよ」と肯定する以外にきっと私の中に選択肢は存在しないんだろう。もしその選んだものが自分が好まないものだったら食べなきゃいいだけ、嫌だって言って空気が悪くなるのはできるだけ避けたい。

だからなのか、大勢が集まる飲み会では『きっと私以外の誰かの意見が通るんだし、私は黙っておくのか堅実かな』そんなスタンスをとってしまう。自分はちょっぴりめんどくさいやつだ。

こんな思考がいつのまにか癖づいちゃったからか、「あなたはどうしたい?」「あなたの好きにしていいよ」そう言われるのが苦手になってしまった。

いまのご時世、大勢での飲み会の機会もうんと減り、少人数で会うことが増えた。もともと人見知りなので、大勢の飲み会は苦手。マンツーマンで会うのがいちばん気楽なタイプなので、自分にとってはいい変化だ。

何度言うのかって感じだけどやっぱりこのご時世なので、会う人もだいぶ限られてくる。職場の人、家族、関係性が近い友人。こんな情勢だとしても会いたいと思える人だけ。そうなると会う相手はちゃんと私をみて、私の意見を聞こうとしてくれる人が多い気がする。

この人は私に任せてくれている、私の意見を尊重してくれるんだ。そう思えるのは嬉しいこと。

でもそんな状況に慣れていなすぎて、どぎまぎしてしまう。

自分は後回しでまわりの意見を優先する、それが当たり前になっていたから。

◇◇◇

つい最近、こんなことがあった。

ある日のお昼休憩、営業さんと私の3人でご飯に行くことになった。ふだんはお弁当だけど、タイミングが合うと営業さんのランチに一緒についていく。

すると一個上の営業さんが「せっかくならあかねさんが食べたいところ行こうよ!」と言い出した。

およよとどぎまぎしながら私の口からでた言葉は「二人が食べたいところでいいですよ!私ついていくんで。」だった。ここで「やったあ!じゃあ、○○に行きたいです!」と言えたらどんなに可愛らしいのだろう。

その営業さんはいいのにいいのにと微笑みながら「遠慮なんていいんだよ。ちょっと遠くても気にしないし、好きなとこ言っていいんだから」と声をかけてくれた。

うわ、なんて仏のような一言なんだろう。

その優しい言葉に背中を押され、私は以前から一緒にランチで行けたらなと思っていたお店の名前を二人に伝えた。

「遠いかもです、すみません」と前置きをしつつお店まで歩く。そしたらものの五分ほどで店に着き、私はほっと安心した。

私が一緒に食べたいと前々から思っていたのは、オフィス街からちょっと離れたところにあるインドカレー屋さん。スパイスが効いていてメニューが豊富、本場の味が味わえてしかも店内の雰囲気もいい、そんなお店。

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「こんなお店が会社の近くにあったんだね」「今日あかねさんにお店選びお願いして正解だった」「いつも同じ店に行きがちだから、新しいところ開拓したかったんだ」

そんな嬉しい言葉たちが私に向けられて発せられる。

この日のランチはいつもと違う満足さでお腹が満たされた。

自分がどうしたいか、どう思っているのか、ちゃんと言葉にして伝えるって大事なんだね。

私がなにかを選ぶとき、その判断基準はいつも自分ではない誰かだった。

他の誰かではない、判断基準は自分にある。

とはいえ「あかねさんはどうしたい?」という言葉にはまだまだどぎまぎしちゃうし、遠慮しちゃうだろう。自分はいいから他の人を優先してあげて、と意見があったとしても無意識に押し込めてしまうだろうな。

でも自分のためにも相手のためにも、ちゃんとどうしたいかの判断基準は自分の手元に置いておくべきなんだろうね。

自分で自分を大事にしてあげる。自分を尊重してくれてる相手を大事にする。

なんか内面的なリハビリみたいだなと書いていて思う。

私はこれが食べたい、どこどこに行きたい、みんなはこう言うけど私はこう思う、そんな小さなところからちょっとずつ自分の意見を伝える練習をしてみよう。人の内面や思考の癖はすぐには変えられないから。

自分らしく過ごしていくために、そんな日曜の夜。




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