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「遠足の思い出」の作文は最後まで書き終えられない。

「遠足の思い出」の作文を最後まで書き終えられたことがない。その日の朝、起きてから家を出るまでを書くだけで原稿用紙は5枚になる。授業中には書き終えられないから、休み時間もずっと書いてる。20枚くらい書いたところで「もういいよ、それで」とあきれた顔で先生が言う。まだ、お弁当を広げるところまでたどり着かない。

たくさん書けるのがいいことだ、と思っていた。みんなが2枚しか書かないなら、私は何十枚でも書いてやろう。結局、文集に掲載されたのは、20枚書いたうちの3枚分くらい。先生が選んで切り取った、尻切れとんぼで中途半端なワンシーンだけ。他のみんなは書き出しから終わりまでちゃんと載ってるのに。そりゃそうか、私だけ20枚分のページを占めるわけにはいかない。

本当は、短く書く方が難しい。だらだら書いていていいのだったらいつまでも書いていられる。どこで終えたらいいのかわからない。ただ言葉の羅列。頭の中を高速で言ったり来たりする考えをただ拾っていくだけ。でも、そういう文章を読みたいと思ってくれる人は少ない。自分だって読み返そうと思わないかもしれない。

誰でも動画を発信できる時代。移動中でも動画を見続けられる時代。何も考えなくても、指を動かさなくても、するするとたくさんの情報が注ぎ込まれる。頭ではもう処理しきれないから、要点だけ簡潔に教えて欲しいと思う。1分にも満たないショート動画が流行る。1分以内の情報を大量に浴びることに慣れる。Twitterの140文字さえ、長くて読めない気がしてくる。

そんな時代だけどあえて、ダラダラと長い文章を書いていたい気持ちになった。長いと言ったって、noteに書くのはせいぜい2,000文字だ。一般的なショートショートがそれくらい。けれどそのくらいの分量も、書き慣れていないと書けなくなる。

あえて読まれにくい文章を書いてみようとnoteを再開したら、自分が読もうとするものが変わってきた。それまでWebでは、サッと一瞬でも意味がわかるものしか見たくないと思っていた。たとえば画像。テキストだったら、多めに改行してあって意味が頭に入りやすいもの。そういうものをただ大量に、流すように見ていく。まあ、つまりは暇つぶしだ。そんなふうに情報を流し込んでいく速度が落ちてきた。他の人が書いた文章も、それがわりと長めで読むのに多少気合いがいるものであっても、立ち止まって読もうとしている自分に気づく。

情報は取りに行かなくても勝手に入ってきてしまう。そしてどんどん流れて行く。激流のタイムラインのなかで、向き合いたいものを丁寧に選ぶ。流し読みせず、じっくりと味わう。そういう楽しみ方に気付き始めたんだ。

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