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Journal de confinement 私のコロナ自宅待機日記2

コロナ自宅待機8日目。

料理中に、ニンニクが好きなことに気付く。ニンニクが好きだから沢山いれよー、と。どうせ人にも会わないしー、と思いがけず楽しい気分になる。

ふと、ニンニクが好きな人が実は大勢いるのではないか、ということに気付く。ニンニク嫌いな人っているの?痔の人とか、刺激物は避けるよね。でも、嫌いなのかな?知らない。ニンニク嫌いな人っているのかしら。



学校の先生からの次のセミナーに向けての準備をしよう、ということでクラス全員にとある哲学者のインタビュー映像が送られてくる。これに対して答える。

人から何かを与えられると、安心する。こんな私は、芸術家の卵として失格なのかもしれない。しかし、人間の私は安心する。

長いインタビューだったけれど、その中で印象に残ったフレーズがある。

「私たちは、いったい人間に何が出来るのか、ということをまだ知らない」

そういう風に思えるのは、すごいロマンティックだな、と思う。フランスから出て、ベルギーに住み始めたときに、フランスがいかにロマンティック思考な国かを思い知らされた。ロマンティックな思考のもとに生きているフランスの人々は、もちろん全員が全員そういうわけではないけれど、なんだかいいな素敵だな、夢があるな、と思わせてくれる。思わせてくれるし、きっと夢のような美しい瞬間というのは、このロマンティック回路によって生み出されるのだろうけど、それが世界中どこでも通用するわけではないのだと分かった。いや、場所が変わっても自分がその思考を持ち続ければいいのだろうけど、私の本性はロマンティックだけではないのだろう。

でも、私は人間に何が出来るかをまだ知らないというのも本当。そこに希望を抱くか、それとも、そうっすね、とあとは別の方向を向くか。それは、誰が決めるのだろう。自分の意思でない限り。


仕事、という概念についても少し考えた。

今この世に存在する仕事は、果たして「仕事」なのだろうか。

今、仕事だとされていない仕事は、果たして仕事ではないのだろうか。

仕事とは何だろうか。ある労働に対価が支払われることだろうか。でも、どんなに素晴らしいことをしていても、一銭たりとも支払われずボランティアとして済まされてしまうケースだってあるじゃないか。

逆に何もしてないのに大金をもらっている人もいるわけだ。日本の総理大臣とかいい例だ。Oups

長らく学生をやっているので、それはよく考える。一度映画の仕事をしたときに殆どやることはなかったのに、かなりの額をもらえた。でも、その役をもらうまでにした努力があるし、なあ。それを考えると、まあ安いぐらいか、とは思う。

じゃあ、今やっている演劇の学業は、いつかやってくるその時間に支払われるのだろうか。何が売り出されるのだろうか。売るのか?売るものなのか?需要と供給があるからね、と何食わぬ顔して言うやつがあるが、私に将来需要があるのだろうか。自分に需要があるかどうか、なんて、なんて残酷な話だろうと思う。

しかし、この世にはもっと残酷なこともたくさんあるのだから。それと比べたらどうってことないじゃないか、とも思った。

しかし、

このコロナ騒動で、「私個人の思いと、全体の善を果たして比べられるものなのか。比べるべきなのか」と自分に問うたところだったことを思い出す。そして、私の思う今のところの答えは、ノーである。

私個人の思いを全体の「善」のために殺すことが絶対的に善である、とは言い切れないと思うのだ。今日のところはそう思う。だからといって、どうにかするわけではないけれど。



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