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【後編】僕とことばの関係。-拝啓、Twitterで長文が書けません-

*ご挨拶*

はじめまして、とみせかけまして、あらためまして、プレゼントはエルメスで許してクレンジングオイルで肌荒れがしゅごいんじゃーのぬこを飼いたいんじゃーでご飯を炊いても糖質制限をしているので余りまくって冷凍庫行きのたかmiと申しません許してクレ、ロジャー。

自己紹介代わりのnote【前編】はこちら↓
(人生で最も無意味な5分間があなたを待っています。)

(この文章がいたって真面目に書かれたものだということが一番信じがたいことだと思います。読んでいただいた方、ありがとうございました。)

さて、こちらを見ていただければ一目瞭然なのですが、僕は「なにかを書こう」とすると、上記のnoteの記事のようなものを錬成してしまいます。

同じ現象はTwitterのつぶやきからも確認できます。

「私がこれまでにどのようなことをつぶやいてきたか振り返るとそこには誰もいなかった」の図↓



おっとこれは大杉栄です、すいません。

こんな僕ですが、根気よく話してくれたり、ご飯に誘ってくれる友達にはとても感謝しています。この場を借りて御礼申し上げます。これからもよろしく。

〜fin〜


監督:たかmi
映像:たかmi
演出:たかmi
音響:たかmi

閑話休題

話が全然進みません。
話をもとにエドワード・モース。
すぐに戻します。すみません。

さて今回はなぜ僕がこんな文章しか書けないような状況に陥ってしまっているのか、その理由の一端について述べたいと思います。

ーここまで前置きー
「長すぎる前置きは、長すぎる箸置きと同じだ」
たかmi(1998-)

('ω')('ω')('ω')('ω')('ω')('ω')('ω')('ω')('ω')('ω')('ω')('ω')

*「」を書く*

ある日、

「noteで自由に書いてくれ」

という話が、サークルの企画であがりました。

僕が所属しているサークルは「出版甲子園実行委員会」という学生出版を応援する団体です。「出版甲子園」では、本を「書きたい」学生を応援し、学生と出版社との架け橋となることで、これまでに36冊の本を世に出してきました。

「出版甲子園」の団体員は基本的に自分たちで文章を書いたりはしないのですが、「書く」学生を応援するという活動内容からも、「書く」ことが好き、もしくは「書く」ことに抵抗の小さいメンバーも多いのだろうと推察されます。

(また、所属しているサークルに加えて、僕の大学での所属は文化構想学部です。この学部は文章を「書く」ことに関して非常に重きを置く学部と言え、「なにかを書きたい」「書くのが好き」と考えている学生が多く在籍しています。)

そのような中にいて、僕は「書く」こと、とりわけ「自由に書くこと」を忌み嫌い、「なにも書きたくない」、正しく言えば「なにも書かないでいたい」という考えを持っています。(本来は墓場までテイクアウトオブ人生するつもりの内容でしたので、このようなかたちで公開したことで、驚かせてしまったらすみません。)

「書きたくない」人が「書く」人を応援するサークルと「書く」学部に望んで入った、なんだか変にみえますね。ですがここでは「好きの反対は無関心」という言葉があるように、嫌いであることは無関心であることと等しくないと考えてください。僕は「書く」ことへの関心がない訳でも、興味がもてない訳でもありません。

むしろ、この「書きたくない」「書かないでいたい」という感覚は、僕の抱える「「書く」ことへの過剰な意識」からもたらされています。

いわば「書かない」ことへ並々ならない執着をもっているとも言える僕が、「書いて」いる今この瞬間にはたらいている、「「書く」ことへの過剰な意識」とはどのようなものでしょうか。

*「書く」自分への嫌悪*

まず、書いたものを読んで相手が自分をどのように認識するかという意識、自分をよく見せたいという欲求への嫌悪感は避けられるものではありません。この記事を書いている今も、常にその嫌悪感に晒され続けています。

「何かを発信して他の人とつながりたい」「誰かに読んでもらって認めてもらいたい」「自分の文章をだれかに読んでほしい」「すごい自分を見てくれ」「私はこんなことがかけます」「自分を知ってほしい」

反吐が出るような醜いこれらの欲望は、僕が常に目の敵にし、その強大さに抗い、ときに勝ち、ときに負ける、目の上の酢昆布スの卵ちゃんです。

質問箱を初めとして、SNSは簡単にそれらの欲求を満たせる条件と場が揃っていますから、僕はあまり好きではありません。ただのコミュニケーションツールであるはずが、ただそれだけのために使うのがいかに難しいか。SNSは自分が見せまいと隠し、仕舞い込んでいた醜さを明るく照らしてくれます。

ただ、己の抱える醜さ、および「書く」ことへの嫌悪について話すことは今回の本意ではありません。僕はそもそも「書く」ことができない、ということについて話したかったのでした。

これらの話はいつかまとめる機会があればなと考えてもいますが、僕は「書く」ことが嫌いなので実現しないかもしれません。

さて、「「書く」ことへの過剰な意識」からもたらされる、「書く」自分への嫌悪感よりも僕が最も耐え難いと考えていることは、「書く」ことから逃げなければ「書けない」というジレンマです。

僕が「書く」ことを忌避し、「書かない」ことに拘っていることには、このジレンマが大きく関わっています。

*「書けない病」*

ある時から僕は、白紙の紙を前にして「何か書こう」と試み毎度失敗する、ということをしばしば行っています。(ただのアホです。)

この儀式に一体なんの意味があるのかと僕の頭を心配される優しい方がおられるかもしれませんが、100%(失敗することに)成功するこの謎めいた試みは「書くことに本質がない」ことを僕に教えてクレマス。

※この花はクレマチスです。

※これはロジャー・クレメンスです。掲載許してクレメンス。(画像はwikiから)(触らずにボールを浮かせているのがかっこいいです)

………………………………………('ω')

さて、先程述べた「書くことに本質がない」とは一体どのような意味でしょうか。

「本質」に関してはJ-P・サルトルが「実存主義とは何か」の中で定義している内容を基にしていますが、彼によれば、人間と人間以外の違いというのは「実存が本質に先立っている」か「存在が本質に先立たれている」かの違いだといいます。

簡単に言えば、人間は「自らが何者であるか(=本質)は、生まれて(=実存して)から本人の様々な選択によって作り上げられる」ものであり、人間以外の物は、「何かをする(=本質)ために生み出されたもの(=存在)」ということである、ということです。

ここにおいて「本質」というのは「実存」の理由目的意図、言い換えれば「そこにある理由、そこにある意味、そこにある目的」となります。

人が「そこにある」ことと、人が「書く」ことは異なることではありますが、今回はこの「本質」という考えを「書く」ことに当てはめて考えてみたいと思います。

例えば、僕が今書いているこのnoteの記事の「本質(=そこにある理由)」はどこにあるでしょうか。

このように考えると、この記事の「本質」は僕が「自由に書いた」【前編】について、説明する「ため」にある、と回答ができます。

また、「自由に書けない」などと声高に叫ぶ僕ですが、こんな僕でもレポートは書くことができます。なぜならレポートには書く理由や目的があるからです。

これまでに自分が書いたものについて考えを巡らせてみると、一般にそれらには、書かれる「理由」「目的」「意味」が存在しているように見受けられ、すなはちそこには、「何かを紹介するため」「何かを伝えるため」というような何かしらの「書かれる理由」が存在しているといえます。

このように考えると多くの「書かれたもの」には「本質」があるのですが、これは「そんなの当たり前だ。書く理由がないのに書くわけがないだろう。」という声が容易に想像できるような主張です。

では、それらの「書かれる理由」は「書く」ことの本質足りうるか。という話についても考えてみたいと思います。

僕は、人は理由や目的、意図があって初めてなにかを「書く」ことができると考えています。理由や目的、意図もなしに「書く」ことが先にあっては、白紙の紙を前にして「何か書こう」と試み毎度失敗する僕のように「書けない」のです。

このことから僕は「書く」こと自体に理由は、「本質」は、ないと考えています。

ここで先程述べた、僕の抱えるジレンマに話を帰着させます。

「書く」ことから逃げなければ「書けない」とはどういうことか。

これまでに述べてきた通り、「なにかを書こう」としても「書く」ことには「本質」はありません。一般的に人はどこかから「本質」を持ってきてそれを「本質」と見なして「書く」しか術はないのです。が、そうして書かれたものは本来的な「書く」こと(と僕が考えること)とは異なったものとなります。

ものを「書いた人」は、存在しないはずの「本質」があたかも存在しているかの如く振る舞うことが強いられ、当人はその欺瞞を許容している己を自覚し、呵責に苛まれるという結果を生み出します。

ここにおいて僕にとって「書く」ことは「書く」ことから逃げなければ「書けない」様相を呈します。それは「書く」とは何であるかがわからない限り当然のこととも言えます。

*殺せ、作為を*

(おっといけません。「本質」の話ばかりで「実存」については触れていませんでした。「書く」ことにおける「実存」とはそこに「ある」わけですから、「書かれた事柄」「内容」のことを示すのではないかと僕は考えています。)

さて、ここまでの「実存」「本質」という概念を踏まえると、僕の前回のnoteやTwitterでの「実存(=内容)」にはどのような「本質」が存在しているでしょうか。

それらには、内容同士の「おと」や「かたち」のつながり合いはあれど、あれらの文章が存在する理由も目的も意図も、そこには存在しません。(「うなぎ昇竜拳」「おなかぽんぽんぴーゃ」というつぶやきのどこに書かれる意図や理由があるでしょう。)

僕の「書く」ものは、そこに如何なる「意味」も「理由」も見いだせない、つまり「本質」がなく、読んでも「何も伝わらない」無意味な文字列なのです。

ものが伝わることとは、誰かが「何か伝えたい理由があって」「書く」ことで初めて成りたつものかと思います。僕の「書く」ものとは、何も伝えようとしていない、体温のないことばで、だから読んでも「何も伝わらない」というわけです。

では、僕は「なにも伝わらない」ものを書いて何をしているのでしょうか。

それは、人を介さず温かmiのないことばのもつ無垢な「おと」「かたち」をただ甘受することであり、それが純粋に「書く」ことができない僕にとって「書く」ということなのです。

これらのことばは「書こう」と考えているうちは出てこないばかりか、むしろ姿を隠してしまいます。ゆえに僕は意図的に「書く」ことができません。僕は絶えずことばの「おと」「かたち」にアンテナを張り、ことばの方からこちらへやってくるのを待っているのです。

そうすると、そのことばは不意に訪れ、心地よい「おと」「かたち」を僕のもとに遺して去っていきます。僕のつぶやきの多くが、それらを(忘れないよう慌てながら)つぶやくことでその訪れをかたちとして遺そうととして、生まれています。このために僕のつぶやきには短いものが多いのです。むしろ長文が全くといっていいほど書けません。

このような背景から、今回のお題である「自由に書く」ことは僕にとって不可能であるのですが、限りなく作為を殺して「書く」ことが「自由に書く」ことに唯一比肩しうる手段であると考えているために【前編】のnoteの惨状が出来上がったというわけです。

(本来は「自由に書いた」【前編】をサークルのマガジンに掲載しようと思ったのですが、自分が部外者の立場で記事を読んだ際に意味がわからなすぎるだろうと考え【後編】を収録してもらっています。)

(また、以前「たかmiの書く文章はナンセンスか」と訪ねられたことがありますが、ナンセンスかどうかは各々の判断するところですので、僕は「ナンセンス」かどうか定義しません。

ただ、僕がすくなくともナンセンスを意識していないことは確かです。ナンセンスなものを書こうと作為が働いた時点で自らの考える「書く」ことからは遠ざかってしまうためです。)

*「書かない」選択*

「「書く」ことへの過剰な意識」、「自由に書くことができない」というと「そんなことは気にせず、気楽に書けばよいではないか」という声も聞こえてきそうです。確かにそうしなければならない理由も必然性もそこにはありません。

ただ、一度「なぜ生きるのか」と考えてしまうと、そのことを考えずにはいられなくなってしまうように、一度「書く」ことの難しさを知ってしまうと、それを意識せざるを得なくなってしまいました。


「書く」ことの難しさを等閑に付して「なにかを書く」

このことは、いわば「前を歩く人が落とし物をしても声をかけられず、後々になってもずっとそのことを後悔している」というような罪悪感、「正しい(と自分が考えている)」ことから逃げた自分への自己嫌悪感、落ち着かなさや気持ち悪さ、諸々を僕に与えます。

「なぜ生きているのか」などの「本質」から目をそらすのは簡単ですし、目を逸らさないと何もできず、ひいては生きることも困難になるでしょう。
でも僕は「「本質」から目を背けている自分」からは絶対に目を背けたくないと考えています。これには、本来生きる理由も意味もない人間としての「何もない自分」、自身の様々な欲求などを感じる「醜い自分」それらを見せないように振る舞う「自分の欺瞞」を常に意識し続ける必要があります。

これらは単に僕の意地であり譲れないこと、というだけです。こんなことを考えているバカがいるんだな〜程度に考えていただければ幸いです。誰がカバやねんロックンロールショー。え、カバじゃなくてバカ?もーしょーがないっすねー。今度買ってきます。バイバーイ。

本当にすみません。でも(いつも)僕がふざけたようなことを言ったりふざけたことような書いたりするのは「書く」ことから逃げなければ「書けない」ジレンマの反動のようなものです。

「逃げたくない」のに「逃げなきゃいけない」からこんな不格好な体たらくを晒しているのですが、僕は繕った自分や己に嘘をついて張った虚勢より、自分に向き合ってなお抗えないことを自覚しながら虚勢を張る人生を選びたいな、と考えています。

*ことばからはなれて*

ことばの「おと」と「かたち」に関してあと少しだけ、「書く」ことではなく「ことば」についても綴ってみようかと想います。

僕は、音楽や芸術、自然がとても好きというわけではありませんが、それらに対して特別な想いを持っています。

音楽、芸術、自然、それらは古きより、人々の心を魅了し猛らせ、癒やし慰めてきましたが、これらのもつ共通点は「言語化ができない」ことにあると僕は考えています。さて、言語化できないものがもつ「感動」「安らぎ」「畏敬」といった力は、「ことば」とどのように関係してくるでしょうか。

人間のあり方を説明するものとして、「言語の限界が思考の限界」だとする立場があります。人間は言語であらゆるものを捉え思考しており、その言語を解明することが世界を説明する礎となる、という立場です。

つまり、「言語化ができない」ということは「理解ができない」ということを意味します。そして、この「理解ができない」という点に僕はどうしようもなく惹きつけられるのです。

以前、友達が出演しているオーケストラの公演に足を運びました。とても素晴らしい演奏で、僕は「わーいいなーサイコーだー」とアゲアゲでした。(※たかmiには音楽がわからぬ。たかmiは小学校の音楽の評定が絶望的である。けれどもことばに対しては、人一倍に敏感であった。)

バカみたいな感想ですが仕方がありません。僕にはその音楽がなぜ良いと感じたのかが理解できていなかったのです。その「良さ」を「荘厳な音色が~」「迫力が~」などと無理に言語化してしまうと、自分の感じた「感動」がどんどん陳腐になっていくようで、耐えられませんでした。

僕は良かったと感じたら「すごい」「サイコー」といっておけばいいと考える人間です。これは「いとおかし」とか「趣深いなー」とか「得も言」でも「エモい」でも同じことです。(※「得も言」または「えもい」は「えもいはれぬ」の略で、僕は「エモい」と勝手に区別して使っています。昔の人が「えもいはれぬここち」とはよく言ったものです。(言うことができていませんが))

このようなこともあって、僕はこれまで、自らが「感動」したものついてコメントしてきませんでした。言語化できないものに「感動」しているのに、それを「言語化」したくはないと考えていたからです。(そのかわり、自分の良いと感じたものを誰かに伝える手段には乏しくなりがちで、「感動」を陳腐化させてしまうような自らのことばの未熟さを呪う日々を送っています。)

とまあこんなことを述べてはいますが、つまるところ、僕は自らのことばの未熟さを棚に上げ、「サイコー」などと供述していることを正当化して己をたばかっていたわけです。何もせず、ただ己の未熟さを呪うだけではいつまでたっても「サイコー」野郎のままです。「感動」は言語化することは不可能ですが、そのことを認め、それでもなお不可能であることに抗おうとする姿勢が現在の僕には足りていません。

話が自己卑下をたっぷり蓄えたビアード・パパのシュークリームはいかがですか状態になってきましたので、今度は「ことば」に関してもっとバカバカしい話をします。

僕は先の公演中に、聴こえてくる音楽を言語化してみようとも試みてもいました。言語化すると「♪~♬♫~♬♪~♪♪♫♬~♫♬」こんな具合になります。

ウソです。メロディーを言語化なんてもちろんできません。ドの音は「ド」ではありません。ミの音は「ミ」ではありませんが、たかmiの「mi」はミの音です。ウソです。

環境音や、音楽のメロディーを言語化してみようとするのは意外と面白いことで、自分のあたまを簡単にショートさせてしまいます。

他にも美術館へ行ったとき、公園へ足を運んだとき。僕は見て聞いて触って嗅いだものを言語化しようとしてあたまをショートさせることがあります。

(この世に生を受けてから20年ほど経ちますが、これまでに「さてさて今日は「モナ・リザ」を「ゲン・ゴカ」するぞい」などという頭のおかしな輩にであったことはありません。)

日常生活で意識的にことばから意味を切り離していくとことばはだだの「おと」「かたち」になります。

そうすると、なにもかんがえられないし、なにもわからないんですけど、いがいとたのしいものです。

ことばのおととかたちをいしきしてみるとじんせいがちょっとおもしろくなったりするかもしれないですねということでこんかいはここらでおしまいにしたいとおもいます

*終わりに*

「日常にあふれる作為とどう向き合うか」というのが、僕の抱えるテーマの一つです。今回はこのテーマに関して、「僕」が、「僕自身」とことばとの関係を一旦精算しようとする試みを題材に書いたというものになります。

作為性を殺すことにやっきになっている「僕」が作為性を殺そうとする作為性を意識していないことの皮肉さについて、どのように感じたでしょうか。

書き終えて、見返していると論がぐちゃぐちゃになっていたり、曖昧な部分もあり、決して満足のいく文章は書けたとは言えませんが、なんだかスッキリとした気分です。

なお、本記事はフィクションです。ここでは色々と考えを述べたりしましたが、現実のたかmiは一切何も考えていません。ただ思いついた面白いワードを発散しているだけのただのアホです。

【前編】では意味がわからないので、もっともらしい説明を書いてみようと注釈を書いていったところ、想定外の長さになり自分でも驚いていますが、全文を読んでいただけるような奇特な方が現れたりするのでしょうか。

記事の内容に関して、思ったり感じたりしたことがある方がもしいらっしゃいましたら、どうぞ気軽にお声掛けください。

削ったたかmi節は、ここで踊っています。

お酢と飛べるよ、どこまでも。

以上になります。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

*サークル’s告知*

(長すぎてここまで誰も到達していないかもしれませんが)サークルの告知を行いたいと思います。

僕の所属する「出版甲子園」では現在企画を募集しています。

「出版甲子園」は「学生の、学生による、学生のための出版企画コンペティション」の運営を行う団体となります。

応募資格は、『学生』であること。のみです。

全国から募集した企画のうち、三度に渡る審査を勝ち残った企画でプレゼンバトルを行い、編集者の目に止まった企画が書籍化の切符を掴むことができます。2019/06/18現在、36冊の本が出版甲子園を通して書籍化されています。

一次企画書の提出は来週の日曜日(06/23 23:59)です。

「何かを伝えたい」という学生の皆様、

「本を出版したい」という学生の皆様、

企画のご応募お待ちしております。

詳細はこちらから↓


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