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トラウマはエンタメになるか

どうもこんにちは、Studio ZOONのムラマツです。

前回からMondで質問を募集して答える形式でnoteを書いたのですが、またすごく興味深い質問が来ていました。

初めまして、ムラマツさんのキャラのディテール作りのお話大変興味深く読ませていただきました。新連載を企画中の連載経験有漫画家です。私はどうしても前普通の会社で働いていた時に受けたトラウマが忘れられず、次の企画ではそれを活かしつつエンタメにしようと考えています。ただ、企画を脱線してしまうほど怒りに任せて描いてしまってただの愚痴みたいになってしまうことがあり、感情をコントロールすることができません。嫌な奴は嫌な奴以上に描きたくないし、嫌な目にあってほしい。でもそこで暴走してエンタメを脱線してしまうのは嫌で、その調整に悩んでいます。トラウマを活かした企画のいい考え方があったら知りたいです。

この質問になぜ興味を惹かれるのかというと、表現の世界にずっといると、(トラウマと呼べるほど強く明確なものでなくとも)表現の起点にはなんらかの「苦しみ」がある、と感じることが多いからです。すごく難しいテーマで、ちゃんとまとまるかわかりませんが、思うことをつらつらと書いていきます。


「トラウマを活かした企画」について

まず「トラウマを活かした企画のいい考え方」について、ものすごくテクニカルなことからお話しします。

それは「強固なエンタメ構造を持った王道の企画」をやることです。個人的な強い怒りや悲しみを持ったテーマこそ、楽しいエンタメの企画でやる。「会社で散々嫌な目にあった」のであれば、会社組織を舞台にした強固なエンタメ構造を取り入れる。例えば『釣りバカ日誌』的な「会社の末端と一番偉い人が人知れず親密になる」でもいいかもしれないし、『半沢直樹』的な「信念を持った主人公が不正を働く組織内の人間を追いやっていく」みたいな話でもいいかもしれません。質問者さんの言葉を借りるなら「ただの愚痴にならないよう、エンタメの構造を先に押さえておく」って感じですね。こういう枠組みの中でなら、質問者さんが実際に会ったような嫌な人や出来事をリアルな「悪」として作中に登場させることができる。

はい、これでバッチリお答えできましたね!質問ありがとうございました〜…ではないですね。この企画の考え方はやっていいことだと思うんですけど、全然この質問への回答には足りてません。

「愚痴」と「エンタメ」の違いについて

最初に僕はこの質問を見て過去に読んだある投稿作品のことを思い出しました。

その作品は「毒親に育てられた」という作者と母親との幼少期のやりとりを描いた(おそらくは実録の)読み切りでした。作中で母親は鬼のように描かれていました。そして幼少期の作者は様々な方法で傷つけられ、孤立無縁で、無力に泣いていました。そこに現在の作者自身の声であろうモノローグで「私はこの日の出来事を決して許さない!」と書かれていました。

その作品を読んで、「こんなことが実際にあったのか…」と胸がギュッと苦しくなる一方で、自分の心はむしろ作品から離れていってしまっていると感じました。質問者さんは「怒りに任せて描いた結果、エンタメではなく愚痴のようになってしまうこと」を悩んでらっしゃいましたが、この作品はまさにそれでした。

なぜ作品から心が離れてしまったのか。それは、この作品が「主張」になっていて、読者がその主張への同意を迫られているからだと思います。「私の母親、許せませんよね!?」と作品を通して迫られている。これが友達との会話なら「うんうん、そうだね」と聞ける。同じような体験があれば「本当に許せない!」と読みながら一緒になって怒れる。が、著者と親密な関係にある人や同様の体験を持つ人以外には、取り付く島がなく感じる。作品が持つ「他者と繋がる力」が弱い。

「作品を描いて読んでもらう」ことは、本質的に人と繋がろうとする行為のはずですが、未処理で強い負の感情の吐露は、その正当性の如何にかかわらず、多くの人を遠ざけてしまう。。。。

翻ってエンタメとは「人と繋がろう」という意思が形を伴っている状態のことを言うのだな、と思いました。上記で僕が提案した「王道の企画をやる」は、「先に人と握手ができる形をキープしておく」という考え方です。そして、それだけでは不十分だと感じたのは、そのような企画をやって悪役にトラウマの対象をただ登場させたとしても、質問者さんの負の感情は未処理のまま残ってしまうからなんだよな、と。

もちろん負の感情が自分の中である程度処理できるようになってから作品にする、ということも良いと思います。しかし、作品にするという過程自体が負の感情の処理に繋がることも事実です。また負の感情を暴走させて作品を作ることも、愚痴をこぼし続けるような癒やしがあり、否定できるものではありません。しかし、人と繋がれない寂しさが残ります(結果、商業にも不向きです)。

なので、もうひと踏ん張りして「トラウマをエンタメにするにはどうすればよいか」について考えてみます。それは「どうすればトラウマを抱えた私が人と繋がれるか」という問いでもあります。

世界観とは「クソな世界への防御反応」

話が遠回りかつ唐突になるんですが、「世界観とは何か」についてちょっと考えてみます。世界観というと「魔法があってドラゴンのいるファンタジー的な世界観で〜」というような使われ方をします(し、それも合ってます)が、僕はその作品・作家特有の世界の見方だと考えています。「世界の見方」なのでまさに「世界観」ですね。

僕が大好きな『カイジ』を引き合いに出します。『カイジ』には「結局は勝つしかない!」「信じられるのは自分だけ!」という強烈な世界観があります。作品の中で、勝ち負けから目を逸らしたキャラや他人の言葉を鵜呑みにしたキャラは、生馬の目を抜くような連中によって確実に酷い目に遭わされます。『カイジ』という物語は、世界のことを「勝つしかない場所」「自分しか信じてはいけない場所」と捉えている。これが『カイジ』の世界観です。

このような世界の見方は、作者が体験した苦しみへの防御反応から形成されるのだと考えています。人間生きていれば様々な苦しみを体験する訳ですが、その苦しみから身を守るために誰しもが「世界とはこういうものなのだ。だからこう考えないといけないんだ」という「クソな世界サバイバルマニュアル」のようなものを心の中に形成していきます。それを率直に作品に落とし込むのが作家であり、落とし込まれたものが世界観と呼ばれるのではないかと。

この世界観は先述の「主張」よりも普遍性があります。「こういう体験があって苦しい!」という主張は、その体験の当事者や親密な関係の人以外には取り付く島がありませんでした。しかし、「(私はこういう苦しい体験をした、だから)私は世界をこう捉えている」という世界観は、個別の体験を消化した結果生み出された「その人のオリジナルの目線」になっているため、「この考え方わかるなー」と共感できることもあるし、共感できずとも「こんな考え方の人もいるのか」と興味深く耳を傾けられます。結果、人と繋がりやすくなります。

ここで一回、質問者さんにバトンを返します。
質問者さんはご自分が体験されたトラウマ的な出来事を経て、今、世界をどのように捉えているでしょうか?

この答えが作品に落とし込めれば、一歩エンタメに近づけるのではないかと思います。

主人公に「願い」を託す

すいません、もうちょっと粘ります。

「世界観はクソな世界に対する防御反応として形成される」と言いましたが、そういう世界観を形成した「私」は一方でこうも思っているはずです。「本当にそうなのか?本当にそれだけなのか?」と。

僕は素晴らしい長編作品の多くは、作家の世界観が率直に作品に落とし込まれている一方で、その世界観を乗り越えたいという作家の願いが主人公に仮託されている、と考えています。

例えば『カイジ』。確かに「結局は勝つしかない!」「信じられるのは自分だけ!」としか思えないような出来事が次々と起こるし、主人公の伊藤カイジ自身もその言葉を口にしますが、いつもギリギリのところで他人を信じようとします。その結果、こっぴどく裏切られ打ちのめされることも多々あるのですが、「勝つしかない!」「信じられるのは自分だけ!」という世界観では説明のつかない現象を引き起こしたりもします(黒服が焼肉代として3万円くれたり…)。

他にも
『進撃の巨人』の「世界は残酷だ」という世界観。
『鋼の錬金術師』の「等価交換が世界の理である」という世界観。
主人公たちはそれらの世界観を受け入れつつ、一方で「本当にそうなのか?」と乗り越えようとします。世界観が突きつける「問い」に対して、主人公は「答え」を出そうとする。

世界観を乗り越えるのは過酷な行為です。なぜなら、その世界観は苦しみから自分の身を守るために編み出されたものなので、そこからはみ出すと世界に蔓延る苦しみをモロに被弾してしまいます(他人を信じてしまったカイジのように)。

だから現実では多くの人が「世の中こんなもんだよ」と世界観の鎧の中で日々をやり過ごすわけですが、一方で「確かにそう考えた方がいいんだけど、本当にそれだけなのかな?本当はこんなことがあってもいいんじゃないかな?」という「願い」のようなものが鎧の中でくすぶっている。だからこそ、物語の中で世界に答えを出そうと戦う主人公を見ると、読者もまた自分のくすぶった願いを託したくなる。「フィクションの中くらい、こんなことがあってほしいな」と願う。こうして世界観を乗り越えようとする主人公の物語には圧倒的な普遍性が宿るのです。

最後にもう一回、質問者さんにバトンを返します。
世界は質問者さんが味わったトラウマ的な出来事が起こる程度にクソではありますが、「フィクションの中くらい、こんなことがあってもいいじゃないか」という願いのようなものはありますか?そして、その願いが叶った景色を一瞬でも見せてくれそうな主人公はどんなヤツだと思いますか?

もしこの答えまで作品に落とし込めたとしたら、きっとその作品は多くの人と繋がることができるエンタメになっていると思います。

質問を募集します

今回の質問に答えるのは、めちゃくちゃ難しかったです。頭がオーバーヒートしそうになりました。でも、質問をされないと絶対にこんなじっくり考えないことだったので、本当にいい機会になりました。ありがとうございました!

というわけで、引き続き質問を募集しております。

よろしくお願いします!

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