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【FMQ記事邦訳】ソビエト時代のカレリア音楽における国民性

Kieli

フィンランド音楽季刊誌(FMQ)に掲載されている記事の邦訳です。
執筆者であるペッカ・スータリ(Pekka Suutari)教授に許可を頂いた上で、翻訳・掲載しています。

原文記事は以下からご覧頂けます。

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ソビエト時代のカレリア音楽における国民性

これまでフィンランドでは、ロシア側のカレリアにおけるソビエト時代の文化研究はほとんど行われてきませんでした。1920~50年代にかけては、ソビエト連邦の文化政策全体の断片的な状況が見てとれます。イデオロギー変化の犠牲者ともいえるカレリア文化は、多文化国家を彩る存在であったこともあれば、異端であると非難されることもありました。

フィンランドとロシア・カレリアの関係は、驚くほど複雑です。カレリアはフィンランドとロシアの国境にまたがっており、ロシア革命にまで計り知れないほど多様な影響を与える地域でした。ソビエト連邦の誕生と冷戦はほぼ80年に渡り、通常の国境 *1) を越える接触を妨げました。

ペトロザボーツク *2) といくつかのカレリアの村で行った調査で、1920年代から1950年代のソビエト時代におけるカレリア国民文化の変遷と歴史をつかむことができました。フィンランドで実施されてきたソビエト時代のカレリアに関する研究は事実上のブラックホールであり、特に第二次世界大戦以降、ロシア・カレリアの人々が何世代にもわたって経験してきた出来事はフィンランドの生活と根本的に異なるため、近年の歴史における民族誌的調査は容易ではありません *3) 。

ソビエト・カレリアの赤いフェンノマン *4)

カレリア自治ソビエト社会主義共和国は、レーニン国家主義政策に沿って1920年 *5) に設立されました。その目的は、先住民を共和国の指導的地位に昇進させることでした。共和国が設立された当時、先住民という総称にはカレリア内フィンランド人とヴェプス人も含まれており、その総数は住民の大多数を占めていました。その後の併合 *6) と工業化により人口は急速に3倍に膨れましたが、カレリア人は少数派となっていきました。今日では、70万人強の共和国人口のうち、カレリア人が占める割合は10%程度です。

共和国の設立には、外交政策上の理由もありました。それはフィンランドの要求への対応 *7)、そしてカレリア人の地位向上です。フィンランドからの亡命共産主義者 *8) たちが共和国の指導者に任命され、例えばエドヴァルト・ギッリング(Edvard Gylling, 1881-1938)は1935年までその地位に就いていました。歴史家のマルック・カンガスプロ(Markku Kangaspuro, 1960-)は、カレリアの国民的イデオロギーは一種の赤いフェンノマン運動であり、その究極の目的は社会主義を通じてカレリア人とフィンランド人を融合させることだったと捉えています *9)。

フィンランドの音楽文化

相当数の亡命フィンランド人がカレリアに定住するよう招致され、特に1930年代初頭からフィンランド文化がこの地に与える影響が強くなりました。フィンランド話者数は多くはなかったにも関わらず(1万人強)、フィンランド人はその地における音楽的および文化的生活の発展に重要な役割を果たし、国の政策でもフィンランド語使用における肯定的な議論 *10) が行われました。このことは民衆に対するロシア化への抵抗の一助ともなり、カレリアの子どもたちは、例え彼らの家族がロシア語での学習を望んでいたとしても、フィンランド語で学ぶよう求められました *11) 。

様々な音楽活動を全国的に展開させる試みが行われたことも有効でした。特に有名なのは1930年代にアメリカに移住したフィンランド人が率いたジャズバンドで、ペトロザボーツクや重要な木材産業地として知られる町コンドポガでの社交イベントやレストランで演奏活動を行いました。すべての芸術分野に及ぶような同様のサブカルチャーが生まれることはありませんでしたが、フォークミュージックは、カレリアの公的な音楽シーンにおいて重要かつ永続的なものになりました。フォークミュージック以外の音楽分野ではロシア音楽との融合が起こり、クラシックやポピュラー音楽の世界ではカレリアを特徴づけるようなものはほとんど見受けられません。

クラブ活動と芸術研究所

カレリアの音楽シーンは、プロの芸術研究所の設立とソビエト文化宮殿 *12) の建設に加え、共和国のすべての村をカバーする文化クラブのネットワークにより、近代化されていきました。とりわけ文化クラブは成功を収め、都市部でも農村部でも、人々は新しい政治計画に耳を傾け、文化的成長に関与することになりました。そこには、カレリア人の古い伝統的な儀礼、祭事、習慣を壊し、娯楽やエンターテインメントとして受容されていくであろう新しい音楽形式に置きかえようとする思惑もありました。伝統的で自然な形の娯楽は、文化の場によって管理されたレパートリーに置きかえられていったのです。

スターリンの迫害がフィンランド系民のナショナリズムにも及び始め、フィンランド文化はカレリアから一掃されると宣言された1935年 *13) まで、フェンノマンたちは共和国の音楽シーンを牽引しました。“カレリアニズム” *14) のわずかな休息期間の後、フィンランド文化覇権はO.W.クーシネン(Otto Wilhelm Kuusinen, 1881-1964)の指導下で冬戦争中に復活します。1940年の春、カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国が設立されました。その国民的アイデンティティは、カレリアとフィンランドの文化融合に基づいていました。

そのため、フィンランド語は学校や文化的シーンで継続して使用されました *15) 。しかし、すべての分野の文化領域で国民的な色合いをもつという目的はもはやなく、次第にカレリア文化はロシア社会とますます深く統合されるようになりました。この同化は、カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国が自治共和国 *16) となった1950年代の終わりに頂点に達しました。

新しい音楽の形式

1922年にカルフォルニアからカレリアに移住したカッレ・ラウティオ(Kalle Rautio, 1889-1963)は、共和国の音楽シーンの中心人物でした。彼と、同じく作曲家のレオポルド・テプリツキー(Leopold Teplitsky, 1890-1965)は、1930年代にカレリア・ラジオ交響楽団を設立し、その少し後にはソビエト作曲家協会の地方支部を設立する任務を与えられました。その他、カレリア音楽における重要な人物としてヘルマー・シニサロ(Helmer Sinisalo, 1920-1989)、ルヴィム・ペルガメント(Ruvim Pergament, 1906-1965)、ラウリ・ヨウシネン(Lauri Jousinen, 1889-1948)、そしてカンテレオーケストラを創立したヴィクトル・グドゥコフ(Viktor Gudkov, 1899-1942)が挙げられます。

カンテレオーケストラの創立は、カレリアにおいて重要で象徴的な出来事です。南ロシア出身のグドゥコフは、カレワラ(Kalevala)*17) やフィンランド、カレリアの伝統に夢中でした。カンテレを初めて目にした後、彼はすぐにオーケストラ音楽に適応した、様々な種類のオリジナル・カンテレの設計を始めました。グドゥコフのカンテレで斬新だったのはクロマティック構造だったことです。これにより専用にアレンジされた作品を、数台のカンテレで構成されたアンサンブルで演奏することが可能となりました。彼は19世紀の終わりにヴァシーリー・アンドレーエフ(Vasily Andreyev, 1861-1918)がバラライカ *18) で行ったように、大型のバスから小型のピッコロまで、様々なサイズのオーケストラ用カンテレ群を作り上げました。

カンテレ音楽の発展

グドゥコフによるカンテレオーケストラのレパートリーは、彼が南カレリアの村から採取した民謡が中心で、時代のイデオロギーに沿ったスタイルで編曲されました。しかし伝統奏者のように耳で体得したメロディの即興とバリエーションに基づいた音楽ではなく、グドゥコフのオーケストラは楽譜を見ながら演奏しました。カレリアの作曲家たちは彼のグループに多大な支援を行い、1970年代にはオーケストラのために膨大な数の作曲・編曲を行いました。グドゥコフは、自分たちがカレリア民の創造性におけるもっとも象徴的な存在であると主張したため、民謡やポピュラー音楽の編曲には独自のイデオロギー的特徴がみられます。

グドゥコフがカンテレを近代化している間、フィンランドではパウル・サルミネン(Paul Salminen, 1887-1949)もコンサートカンテレ *19) の新しいデザインを設計していました。これらの楽器の違いは、目を見張るものがあります。グドゥコフのカンテレはクロマティック構造で、音が大きく、サイズも様々で、集団的なオーケストラ演奏用にデザインされました。一方、サルミネンのものはソロ演奏を想定していました。グドゥコフはこの楽器の違いは、ブルジョア(フィンランド)とプロレタリア(ロシア・カレリア)という2つの対極的な音楽文化によるもの *20) であると述べています。

文化の中心にある国立合唱団

カレリア文化の発展は、1930年代終わりにいくつかの国立合唱団が設立されたことによって後押しされました。合唱団とオーケストラは、文化宮殿や多くの人気のある芸術祭で国の創造性を強調するのに一役買いました。つまり音楽の美的な影響は、ロマン主義時代の民間啓蒙運動のように、もはや高い場所から伝わっていくものではなくなりました。その代わり、大衆文化への多様で草の根的な取り組みが注目されるようになります。特に1930年代には、音楽とダンスのイベントは大衆による、大衆のためのものへと進化しました。人々は、自分たちにもっとも馴染みのある大衆的な美学、スタイルを帯びた地元の音楽を披露しました。

合唱団にはかなりの支援が行われ、発展とトレーニングに多くの資金が使われました。合唱団のもっとも重要な役割は、コンクールや公的な視察に参加することであり、そのための演奏スタイルやレパートリー、歌の主題に関する詳細な規則がまとめられていました。30年代初頭、マスコミは例えば一部のグループが行ったカレリアの結婚式を扱った舞台を批判しました。後進的な伝統を支持するためのプロパガンダだとみなされたのです。

そのため新たなレパートリーを追加する必要があり、実際に行われてきました。1930年代に堅実なスタートをきった収集活動は、伝統の採録に限定されてはおらず、古い形式を現代的に適用させる必要がありました。そうして現在、収集家に触発された伝統的な芸術家が、新たな泣き歌やカレワラのような詩歌を作曲し、その多くが出版されました。

カレリア文化のロシア化

しかし、時が経つにつれて、合唱団の演奏スタイルでもロシア化が目立つようになりました。戦後、合唱団には現地の言葉(カレリア語)を知らない指導者を迎え、彼らのレパートリーはより“ロシア語化”しました。共和国の学校がフィンランド語の使用をようやく辞めた50年代の半ばには、カレリア語は徐々に日常的に使われなくなり、カレリア語とフィンランド語は文化クラブでも話されなくなりました。

ソビエト連邦の共産主義の道中、民族文化は後進的だと考えられたため、ロシア化は国家によって強化されていきました。カンテレオーケストラはそれでも演奏を続け、いくつかの国立合唱団はそれでもロシア語のレパートリーと併せてカレリア語、フィンランド語の歌も歌っていましたが、カレリアのフォークミュージックの目的はもはや民族アイデンティティを強調するものではなく、多文化国家であるソビエトの一部としての民族文化を示し、民族間の交流を築くためのものとなりました。国民的アイデンティティの促進は反体制派の成果であり、ソビエト連邦の一貫したイデオロギーへの干渉は決して容認されるものではありません。

This article was first published in FMQ 3/2005.
本記事はFMQ誌 2005年3号に初掲載されたものです。

写真:執筆者によるフィールドワーク成果物より
邦訳・訳注:kieli

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訳注

* 文中に登場する人物名には、ラテン文字での表記と生没年を追記した。

*1) 現在の国境。つまりフィンランドとロシアという「国家」によって、カレリアが分断されたことを指す。
*2) カレリア共和国の首都。
*3) フィンランドでは、フィンランドに移住したカレリア民に関する研究はよく知られ、本人あるいは親族による回顧録も多く出版されているが、ロシア・カレリア側に残ったカレリア民に関する資料は限られている。
*4)独立後の内戦に敗れたフィンランドからの亡命共産主義者の通称。
*5)通称カレリアASSR。実際には1920年に設立されたのはカレリア労働コミューンと呼ばれる自治地域団体。その後、1923年に全ロシア中央執行委員会の決定によりソビエト・ロシア連邦社会主義共和国を構成する一つとして認められた。現在のカレリア共和国では、カレリア労働コミューンが設立された1920年を共和国の設立年として祝している。
*6)冬戦争ならびに継続戦争でフィンランドからロシアに割譲された地域と共に1940~56年にかけてカレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国(カレロ=フィンSSR)に編入されたが、再びカレリアASSRに降格された。1991年よりカレリア共和国。
*7)同年6月にタルトゥで和平交渉を行うことが2国間で合意しており、ロシア側はこれを有利に進めたい思惑があった。
*8)1918年、フィンランド内戦にて敗北した左派赤衛軍を支援していたフィンランド共産党の一部幹部がソビエト連邦に亡命した。
*9)いわゆる「大フィンランド」思想。
*10)1921~23年にかけてフィンランドに逃れていたカレリア人ならびにフィンランド人義勇兵が国境を越えてカレリアに侵入し、カレリアの半分の地域を占領する「カレリア蜂起」が起こった教訓を受け、カレリアにおける民族問題再発の防止策としてフィンランド化が図られた。これにより共和国内においてフィンランド語に母語としてのステータスが与えられ、フィンランド語によるカレリア住民への文化活動が実施された。
*11)訳注10 の政策は、フィンランド語と遠い南カレリア方言を話す住人の不満を呼んだ。また、もともと識字率の高いカレリア人の大半がロシア語を理解できたにも関わらず、カレリア人ならびにロシア系住民にまで隣国であるフィンランド語教育が行われたことで、カレリアの言語政策は他の地域と比べて極めて異質なものとなった。
*12)1920年代末頃からソ連内では、労働者の娯楽ないし休養施設としての労働者クラブや「文化の家」が多く建設され、宮殿型の建造物も多く建てられた。
*13)この後スターリンによるいわゆる“大粛清”を迎え、カレリア共和国内にいたフィンランド系住民の多くが流刑または処刑され、数多くの音楽家も姿を消すこととなった。
*14)ここでいう“カレニアニズム”は、訳注10・11で記したカレリア内で行われたフィンランド語化政策の終了後、1937~40年のわずかな期間に行われたカレリア語発展に向けた動きを指す。
*15) 記事「禁じられたABC読本 - 『KARJALAN LASTEN AAPINEN(カレリアの子どものためのABC)』」で紹介したABCの本も、ロシア・カレリアにおけるフィンランド語政策が継続される1942年に出版されたものである。
*16)カレリア自治ソビエト社会主義共和国(カレリアASSR)。1956年よりロシア・ソビエト連邦社会主義国に編入された。
*17)フィンランド人医師エリアス・ロンルート(Elias Lönnrot, 1802-1884)が各地をめぐり、主にカレリアで採取された口承叙事詩を編纂した『カレワラ』には、1835年に出された『古カレワラ(Vanha Kalevala)』、1849年に補筆した『新カレワラ(Uusi Kalevala)』があり、通常は後者を指す。ただしここでは、編纂・出版された文学作品としての『カレワラ』ではなく、古くから存在した伝統詩を指す。『カレワラ』はフィンランドの民族叙事詩と紹介されることがほとんどだが、ロシア・カレリアでは「フィンランドとカレリアの共通の文化遺産」と表現している。
*18)ロシアの民族楽器の一つで長棹に三角形の胴体をもつ有棹撥弦楽器。19世紀末にV.アンドレーエフらが近代化をはかり、演奏会用楽器として定着した。
*19)サルミネンによるフィンランドのコンサートカンテレは、全音階構造のままレバーチェンジによって音階を調節する仕組みで、グランドハープの構造を基に開発された。駒を使用せず、弦を直接ピンで固定しているため音量はあまり出ない。
*20)グドゥコフが楽器開発当時からサルミネンを意識していたかは不明だが、民俗学者として楽器を発展させたグドゥコフに対し、職業的音楽家(オーケストラの一員)であったサルミネンとは楽器に求める役割がそもそも異なっていたとも考えられる。

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筆者紹介

ペッカ・スータリ(Pekka Suutari)

東フィンランド大学カレリア研究学部社会科学研究学科教授。ヘルシンキ、ヨーテボリ(スウェーデン)、ヨエンス―、ペトロザボーツク(カレリア共和国)の大学・研究機関で民族音楽学、民俗学を学ぶ。これまでにスウェーデン系フィンランド人におけるダンス伝統に関する研究や、ペトロザボーツクにおけるコンテンポラリーフォークミュージックの研究を発表。近年はカレリアの言語や音楽、文化的活動に関するプロジェクトに携わっている。

ちなみに。
奥様のオルガ・カルロヴァ(Olga Karlova)さんは、ヴィエナ・カレリア方言を母語とするカレリア人で、カレリア語の教科書や教材の執筆・作成に従事しています。カレリア語【ヴィエナ方言】独学記録では、オルガさんが執筆した教材「ヴィエナ・カレリア語の初級レッスン(Vienankarjalan alkeiskuršši)」を主に使用していますし、カレリア語の聞き取りで不明なことをお聞きしたり・・・とお世話になっています。

お二人の結婚時にはカレリアの伝統的な婚姻儀礼を模し、媒酌人を通じた「手打ちの儀礼」を奥様の出身村の住民たちが即興的に演じました。その様子がYoutubeで公開されているので、ぜひご覧ください。

ナレーション・会話:カレリア語ヴィエナ方言、ときどきフィンランド語(英語字幕あり)

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