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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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2023年3月の記事一覧

日記のような、びぼーろくのような(2023.3.29 京都大原野のタケノコの声を聞いた日)

昨日もまた朝仕事を終えて京都西山にある放置竹林整備のNPO事務所まで行った。春はあけぼのとは言うけれどもこの春はどの部分を切り取ってもいいものである。広い青空は春の空気に満ちていた。西山に貼り付く山桜はまるでパッチワークの一部ように私の目には映る。常緑の深緑と新緑の黄緑、白っぽい山桜のパッチワークである。 事務所に着くといたのは理事長と近くの造園屋さんの80歳過ぎの会長が世間話をしていた。タケノコの出始めたこの時期、誰も事務所にはいない。鳴き方を覚えたウグイスは誰かにその声

母よ嘆くなかれ(再掲)

子どもの頃から自分で買った本の最後あたりに買った年月日、書店名、その時あったこと、思ったことなどを書き入れている。 半年前に済ませた引っ越しなのに、まだ残る片付けのなか、段ボールの中から出てきたパール・バック『母よ嘆くなかれ』の最後には、1984年12月28日新宿紀伊国屋書店で購入となっている。私は大学生活最後の師走は東京にいたのである。そして、三冊目の購入とある。手元にはこれしかないから二冊は誰かに進呈したのだろう。たぶん一冊は母に渡したと思う。もう一冊は台湾の母、黄絢絢さ

台湾の母からの便り 

台湾に血の繋がりの無い私の母のような人がいる。黄絢絢さん、今月末で95歳を迎える。 さかのぼること50年前、私がまだ小学生、当時は豊橋駅まで徒歩5分の住宅街に住んでいた。母は駅前の総合病院で看護師をし、当時まだ走りの透析センターで働いていた。重度のてんかん発作と知的障害を持つ兄と私を置いて夜間勤務もよくしていた。そこに台湾大学病院の看護師たちがまだ台湾に無かった新医療の研修に来たのである。絢絢はその一人であった。40代の絢絢は生涯独身を貫いた。姉一人、弟二人の四人兄弟である。

日記のような、びぼーろくのような(2023.3.22 京都大原野でWBCを観戦した日)

京都大原野にも春爛漫の日がやって来ていた。昨日、仕事を終え放置竹林整備のNPO法人事務所「京都・竹・環境流域ネット」まで行った。最寄り駅の阪急洛西口駅からレンタサイクルに乗るが京都西山に向かう空気にはもう冬の居残りを感じることは無かった。枯れていた草木や畑には新しい緑と赤・黄・白とやって来た春を喜ぶ素直な息吹があふれている。桜の蕾も弾けんばかりに膨らみ、チラホラと我先にと開きかける悪戯坊主もいる。もう誰も止めることの出来ない春が堰を切っていた。 事務所に着くといつもと様相が

母をたずねて三千里

先週東京の伯母の弔問に行ってもう一週間が過ぎている。一時期母、兄、母の姉二人、台湾にいる私の母のような黄絢絢さんに月にニ、三度ハガキを書いていた。 母が亡くなり、伯母も二人ともいなくなってしまった。残る兄と絢絢さんにハガキを書いているが二ケ月くらい前から絢絢さんと連絡が取れなくなっていた。 95歳になる絢絢さんはもう5年も前から手紙は書かなくなっていた。筆まめの絢絢さんであったが、年齢には勝てない。私も事ある毎に「返事はいらん!」と言い続け、一方的に送り続けて来た。 そして、

京都、そして大阪へ

昨日の午後、JR京都駅烏丸口に久しぶりに立った。立ったと言っても職場の定期検診があり京都駅前の健診センターに行ったのである。労働安全衛生法で夜勤勤務者には年二回の健康診断が義務付けられている。この三年間、週三回の夜勤を続けている。私の健康を心配してくれる方が周りに多いが、この週三回という決して酒を飲んではならぬ日が出来たことによって健康が保たれているような気がしている。それまでも健康診断の結果で異常値は無かったが、積年のストレスと飲酒によってそろそろ身体に異変が起きてもおかし

大阪人でない大阪在住者である私の雑感 2023.03.20

大阪での生活は私のこれまでの人生の半分以上を占めてしまった。こんな書き方をするが決して私は大阪が嫌いじゃない。大阪にやって来て最初の仕事の拠点は大阪環状線を中心に考えるならば東部の京橋駅エリアだった。そして京橋からさらに東に延び、京都に行き着く京阪沿線も仕事のテリトリーであった。これはゼネコン時代。 そして環状線の一番北の大阪駅、梅田エリア。JRが東西に伸び、地下鉄が南北に何本も走り、阪急、阪神の私鉄が関西一円を網羅する。そんな関西の交通の要所である。ここは設計事務所時代。

私の大切な文房具

私の文房具好きには年季が入っている。そこいらのペンショップに負けないほどのペン(万年筆・ボールペン・シャープペンシル)を持っている。 そして、買って仕舞い込んだままのモノは一本も無い。今でこそキーボードに触れている時間が多くなったが、それでも基本は移動中や出先では筆記具と紙のノートかメモ帳、もしくはそこで頂戴するA4のコピー用紙である。 紙はどこに言っても調達できる。移動中であればガムの包み紙でも弁当の包装紙でもいい。打ち合わせ先のどんな場所に行ってもA4のコピー用紙を所望し

老人と桜

大阪は八尾の公園、月曜の休みに用足しをする帰りに目に入った葉桜。 桜の名前は知らない。きれいだなと思い自転車を止めてスマホを向けていると、お一人の高齢の方が私の視界に入って来た。こちらに気付きながらもその足を止めず、ずかずかと入って来るのが何とも大阪らしい。 たおやかな一本の葉桜と大阪の老人。 細い葉桜はまだまだ若いのであろうか。桜の寿命は人のそれと変わらぬと聞いたことがある。ならば若い桜に惹かれ老いらく恋に落ち、私の存在など目に入らないのであろうか。 墓場に近き老いらく

車中にて思ったこと

久しぶりの上京、用を終え大阪に向かう。日頃の寝不足を取り戻すかのように座席と一つになって新幹線で寝た。不思議である。東京でも大阪でも時間は同じように流れる。私が今ここで呼吸している間にも東京にいる彼も彼女も自分の時間を生きている。そんな当たり前のことを不思議と感じたのである。 移動をする事、今回の伯母の弔事に出かけたことも旅と考えるのであるならば、旅の必要性を考える機会となった。かつて経験しなかった流行り病はいろんな大きな理由となり、私たちに本当の負ばかりではなく、いい意味

日記のような、びぼーろくのような(2023.3.08 京都大原野の春のおとずれ)

毎週のルーチンである。 朝、仕事を終えて京都大原野にある放置竹林整備のNPO事務所に向かう。 ほんの二週間前に手袋をして、ジャンパーのチャックを顎まで上げて自転車を走らせたのが嘘のようであった。 京都西山、大原野の里にも遠慮がちではあるが春は足を運んでいた。 途中洛西ニュータウンを抜けるが、街の歴史とともに歩んで来た年老いた街路の桜の芽はあと一押し、背を押してくれる誰かの登場を待ちわびているようであった。 そんな中にいつも気になる一棟がある。 昭和40年代に住んだ豊川の社宅

なんでもない夜

八尾の夜は更けていった。 いつものなんでもない夜は更けていった。 不思議である。 休みの一日、大したことをするわけでもなく、近所に自転車で出かけ、だらだらと寝たり起きたするだけでも腹が減る。 そして、飯の仕度をしてボソボソ食う。 そんな日は特に酒も飲みたくなくボソボソ飯を食いつつ夜は更けていった。 あとどれだけこの営みを続けるのであろうか。 陽は昇り、陽は落ちる。 そして月は昇り私を照らす。 二人は黙って一日の営みを繰り返す。 永遠のように思える彼らの営みも有限である。 その

私の記憶

それはまだ私が春風だった頃のことである。 遠い山からこの街にやって来た。 すべては新鮮で心浮き立つことばかりであった。 アパートの開け放した窓から入り込むとそこには生まれたばかりの乳飲児をあやす若い夫婦がいた。 親が子に注ぐ愛情ほど温かなものは無い、そこには私の出番は無いようだった。 そっと子の頬を撫でてその部屋からは出た。 甘いお母さんの香りは私に遠い昔を思い出させた。 公園では女の子が泣いていた。 小学校で心無い言葉を投げかけられて泣いていた。 帰って話の出来るお母さ

日記のような、びぼーろくのような(2023.3.01 京都駅八条口でのおもいで)

仕事が終わり、朝JRで京都駅に向かった。 名古屋の製薬会社が竹材の契約にやって来るから出てこれないかと仕事中の昨日の晩に理事長から連絡が来た。 「よろしく頼む!」いつもこんな感じである。 京都駅を八条口から出て陽に当たるともう違う季節を感じた。ジャンバーを脱ぎ何年振りだろうか都ホテルのロビーに向かった。 まだ駅上のグランビアホテルの無い頃によく人と待ち合わせ、打合せに使った。なんだか活気の無いロビーで久しぶりに一人ボ~ッとしながらホテルを出入りする人間の観察をしていた。10