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車中にて思ったこと

久しぶりの上京、用を終え大阪に向かう。日頃の寝不足を取り戻すかのように座席と一つになって新幹線で寝た。不思議である。東京でも大阪でも時間は同じように流れる。私が今ここで呼吸している間にも東京にいる彼も彼女も自分の時間を生きている。そんな当たり前のことを不思議と感じたのである。

移動をする事、今回の伯母の弔事に出かけたことも旅と考えるのであるならば、旅の必要性を考える機会となった。かつて経験しなかった流行り病はいろんな大きな理由となり、私たちに本当の負ばかりではなく、いい意味での負の理由も作らせてくれた。
私はそれをいい事に自分の好きな自分の世界に引きこもっていたように感じた。毎日同じルーチンのなか同じ移動を繰り返し、部屋に閉じこもり同じような好きな事ばかりに没頭するのは当たり前ではあるが同じような刺激しか私の脳に与えることは出来ないであろう。違う脳を動き出させるために移動もし、多くの人と話をし、考えることは大切な事のようである。逆もまたしかり、心地よさを感じた東京の雑踏に慣れてその心地良さを忘れた頃には引きこもりも必要なのかも知れない。そんな時がやって来たら今度は誰とも会わないスマホも使いにくいような山奥の湖のほとりにでも籠って生きてみたいと思う。

今大阪の部屋で窓を開け放つ、もう寒くはない心地よい冷たい空気がながれ込んでくる。いい季節がやって来た。行動するのにも物事に思慮するのにもいい季節がやって来た。
事ある毎にもう20年も前に他界した合気道の師範の墓の前に立つ。無理して今回の帰りに寄って手を合わせてきたが、亡くなる直前に電話で「なにか新しいことを考えてるだろ」とそっと背中を押してくれたように今回も生田の空気が私の耳をくすぐった。

日本のスタートはやはりこの春でいいのかも知れない。寒い冷たい空気と入れ替わり、これからスタートするぞって元気いっぱいの空気のみなぎる春でいいのだと思う。その先、結果はまた別の話である。まずは歩き出す、まずは始めるそんなことに向くのが春なのであろう。
桜のつぼみが弾けそうにふくらんでいた。
もう春である。
北の大地も川の結氷が緩み、流れの音が聞こえて来たと連絡があった。
全ては整いつつある。さあ、前に進み出しましょうか。

でも、よく寝た。新横浜でシューマイ弁当を買って考え事をしながらボソボソ食べて「ああ、醤油入れの瓢箪小僧のひょうちゃんが無くなった」と妙に寂しさを感じるうちに記憶は無くなり、気が付けば京都駅だった。新大阪で在来線に乗り換えた時にはもう暑さを感じていた。東京でまとわりついて来た空気は大阪でかいたねばねばした汗と一緒になっていた。
大阪に帰り今日は合気道の稽古である。
普通の日常が戻って来た。
いつもの思考に戻っていく。
でもその思考は二日前の思考とは違うのである。
こんな刺激を感じ、考えながら生きることがいいのは私ばかりではないであろう。


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