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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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2022年10月の記事一覧

放置竹林整備の目指す先

毎週水曜、朝仕事を終えてその足で京都大原野に事務所を置くNPOまで手伝いに行っている。 たいそうなことを書くが私が行って何が出来るわけではなく、ただの皆さんの話相手なのである。 三か月前に理事長が心筋梗塞で倒れ、それから週一度だけだが足を運んでいる。 竹に限らず地域の自然管理を自らの責任と思う意識が薄れているばかりか少子高齢化で竹林整備は物理的に不可能に近くなっている。 法人を設立して15年近くなるが京都府下の至る所でこの問題はあり、観光地である嵯峨野の人力車の走る竹の穂垣

深まり行く秋

人生100年なんて嘯いた奴がいるそうだが私に限ってはそんなことはあり得ないことと思っている。 ベッドの上で100歳まで生きて何の意味があろうか、生きるって意味が分かっているのであろうか。 障害を持つ兄たちはいつも前を向き歩き行く。 ただ歩くだけだがその努力は並大抵ではない。 まだまだ元気に見える兄であるが、子どもの頃から多量の抗てんかん剤を服用させられ、内から見た身体は決して健康とは言えない。 そんな兄たちであるが、間違いなく日々を懸命に生きている。 それに比べ、健常とい

スタバという場所

なんとなく私には場違いのような気がしていたこのスタバに時々行く。 まだネクタイを首からぶら下げていた頃には普通の喫茶店、いわゆる街の喫茶店で時間を過ごすことが多かった。 当時はまだパソコンなど普及する以前のこと、仕事の書類を持ち込み作業に集中した。 まだケータイも無い、ポケベルはいつも机の引き出しの中だった。 会社では電話は鳴るわ、上司に呼びつけられる、夕の酒飲みの誘いに来る奴や、とにかく集中は持続できなかった。 それで脱出した。 個人の喫茶店では店主に遠慮もある。 たと

37年前の写真

1985年、大学を卒業して社会人となった。 バブルの始まるいい時期であった。 入ったゼネコンでは英語の研修を受けさせられた。 大阪に赴任するまでの4カ月間だったと思う。 朝から晩まで英語漬け、帰っても課題が待っていた。 こんな事をさせてもらって給料をもらっていいのかと不思議だった。 その頃は社員教育にも潤沢に金をかけれる優良な会社だったのである。 そこでアメリカ人の講師が描いてくれた私の似顔絵である。 まだ卒業したての私はスリムだったかも知れない。 英語漬け

子を棄てる

愛しの子、最愛の子と言いながら その子を棄てる親がいる 積年の労苦は人を鬼と化してしまう。 身ごもった時の祝福も、体内の生命を感じたその喜びも忘れさせ、打ち砕いてしまう積年の労苦。 なぜ私ばかり、どうして我が家ばかりと苦しみ悩み悲嘆に暮れる歳月は人を鬼にしてしまう。 間違っている、違っているよと言いはしない でも正しいとも言えはしない 拾い上げた芋虫の子を育て上げた百鬼丸の父親代わり、寿海医師の気持ちを思う。 子を棄てた芋虫の子の母、縫の方の悲痛を感じる。 理解はするが

秋の夜長

猫は一日の長い時間を寝て過ごす。 我が家の高齢ブウニャンはとても長い時間を寝て過ごす。 私の部屋で眠り続けるブウニャンにも窓から外を眺める時間もある。 何を思いながめているのだろうと思う。 しかし寝る時間が長い。 人間のように夏の疲れがこの時期に出てきたりするのだろか。 涼しくなった秋の夜長は楽しみである。 転居して二年過ぎたが、実は開けずに置いてある段ボールが部屋に積んだままである。 中は私の蔵書である。 断捨離を考え始めた時の転居は物の処分にはちょうどよかった。

京都大原野で考えたこと

『所有からアクセス』なんて現代を象徴する言葉を耳にするようになって久しくなる。 昭和の終わりに社会人となった私の知る会社の事務所は、まだコンピューターなど登場せず、各人の机には電話一台と書類が机に山積みになっていたりした。今でもそんな事務所が残っているかもしれないが、最近の私の知る経営者はなるべく机には物を置かずノート型パソコンが一台だけ置いてある。 必要な情報はすべてそこから取り出せることは理解出来るが、言葉にならない違和感がある。危機管理のために書類でもデータを残すべき

大阪京橋にて

ペデストリアンデッキから眺めるビル群の姿が好きだった。 昭和60年(1985年)、大阪京橋OBP大阪ビジネスパークは私がゼネコンに入社した頃、建設工事の最盛期だった。 もともとは大阪陸軍造兵廠の跡地であったOBP、その土地の一部を所有していた私のいた会社は当時まだ残っていた日本の古き良き慣習の土曜日の『半ドン』の午後に、若い社員たちのソフトボールのためその空地を開放していたそうである。 草原の匂いがしそうなそんなのどかな風景はOBPの建設によって未来都市のように一変してしま

日記のような、びぼーろくのような(2022.10.16 浮世の義理)

昨日の日曜日、朝仕事を終えて急いで帰る。 荷物を持ち換え、天王寺に向かった。 合気道の稽古である。 通天閣を横目に歩いていると額に汗が流れるわけじゃないが、この時期にしたら異常な暑さである。 このあと、雨が降るようだが、あがればすぐに冬なんだろうなと考え歩く。 道場一階の石材屋さんでは新しい石槽が出されている。 これは、、と思いのぞき込むとメダカの稚魚、3ミリほどの稚魚が元気に泳いでいた。 やさしいご主人の顔を思い出しながら遅れている稽古に向かう。 二階に上がる途中に初段を

考え生きること

広い食堂にただ一人座る兄。 食事の始まる一時間以上も前である。 出産の無理で脳に深い傷を負わせたためのてんかんの持病。 母は一人考え詰めて父の海外赴任時に兄の左右の脳に、医者にメスを入れる事を許した。 さらに高度に複雑になった兄の脳はもう誰にも治すことはできない。 望んで生まれてきたわけじゃない。 いつも死んでしまいたいと思ってた、と初めて聞いた時には泣けてきた。 そんな兄は食堂でいつも一人なにを考えているのだろう。 母との最後の別れだと、車椅子の兄をグループホームに

難波の夕に考えた

大阪は難波の夕である。 人と会い自宅に帰る途中、初冬を思わせる冷たい空気の中を少し遠回りをして駅に向かった。 早足で駅に向かうサラリーマン、大声で談笑しながら繁華街に向かう若者のグループ、皆なにかを終わらせてスイッチの切り替えをする時間である。 難波の夕焼けはきれいであった。 それだけで誰もが機嫌良くなれるような天気であった。 明日への活力を蓄えるための元気がここにはある。 そんなふうに思わせるこの難波の街は昼も夜も元気である。 大阪に来てこの難波を独り歩き「ああ、大阪

日記のような、びぼーろくのような(2022.10.10 体育の日)

昨日の体育の日、午後に合気道の所属会の稽古会があり大阪市の体育館に向かった。 このコロナ禍で久しぶりの所属会派の道場が集まっての稽古会だった。 百人以上が集まった。 指導は八段の主席師範、所属会のトップである。 70歳を越えるがさすがプロを思わせる身体の動き、関西で一番若い八段である。 大阪に三名、奈良に一名の八段、兵庫、滋賀、京都には八段はたしかいなかったと思う。 初冬を思わせるこのニ三日だったが、小雨が残る湿潤な天気は久しぶりに大汗をかかせ、稽古を終えた。 帰りにふと気

明日は我が身

ある人間から 「頭の中をカラッポにすることは、たまには良いことだと思います。新しい風が入ってきそうです。」 と言われた。 その通りである。 考え詰めることがいつも良いとは限らない。 新型コロナ禍のなか、人と会う機会が減ってしまい独り考える時間が増えてしまった人は少なくないのではないだろうか。 まったく違う事を考える。違う環境下で考える。一度リセットする。 それには他人と話しするのが一番である。 私の母は一つの事を考え詰めた。 私はそれがアルツハイマーの原因の一つにもな

母と兄の思い出

愛知県豊川市穂ノ原、子どもの頃よく自転車で出かけた懐かしい地です。 その近くで両親と兄、私とで2DKの社宅で暮らし、小学校四年まで過ごしました。 夜勤明けの母が兄と私を連れ穂ノ原の先の赤塚山まで自転車で遠出したのはこの初冬の頃でした。 三人で腰をおろし赤塚山から見渡す穂ノ原は地名のようにススキの多い土地でした。 私にはその穂ノ原のススキが静かな海にさざめく小波のように見えたのでした。 その景色を眺めながら、少し肌寒くなってきた空気の中でまだ魔法瓶と呼ばれていた携行用