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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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2022年6月の記事一覧

6月29日京都も暑かったという話

この日本で最近まであった『梅雨』という概念が変わってしまうのか、それとも気候自体が変わってしまったのか、なんだか『梅雨』に懐かしさを感じるのは私だけなのだろうか。 梅雨が大好きとは言わないが一年の中であんな落ち着く時間があってもいいんじゃないかと思っていた。 神の為せることなのか、愚かな人間の怠惰な積み重ねなのか、それこそ神のみが知ることであろう。 さて、6月29日に久しぶりに放置竹林整備のNPOの手伝いに京都西山まで出かけた。朝まで仕事をし、通勤で使うJRの駅を通り越し

夢をかたちに

この歳になってもまだ夢はあります。 また夢を一つ、実現させるために努力を続けていきます。 まずは土台を固め、その上に必要なものを一つずつ積み上げていくのは建物を建てるのに似ています。 すべては思う通りに進むことはなく、途中の設計変更もありです。 柔軟な対応の出来る心と発想が大切です。 ともに進む若い仲間に柔らかな心と発想力を身につけてもらいたいです。 それは日々訓練です。 分岐点では必ず困難な道を選び歩いてもらいたい、一度経験した困難は次からは困難ではなくなりま

暑い日の記憶

暑さと胸苦しさで太郎は遅い午後に目が覚めた。 夜勤明けの稽古はそろそろきつい年齢になっている。 胸は苦しいはずである。起きぬ太郎を目覚めさせようとタマは太郎の胸に乗って太郎のあごをそのザラザラした舌で舐めていた。 そんな暑さと胸苦しさは太郎を40年前の練馬区に飛ばしていた。 1983年昭和58年のゴールデンウイークに太郎は帰省をすることも無く、飲み屋の店員のアルバイトに行く前に大学まで筋トレをしに行った。 テレビを持たない太郎は珍しく部室にあるテレビをつけていた。 たぶん、

石で思い出す

『豚に真珠』『猫に小判』と辛口先輩方からは笑われてしまいそうであるが、子どもの頃から宝石も含めた石が好きであった。 拾って帰り、ポケットに入れたままでよく母に叱られた。 10円玉は拾えなかったが変わった石ころ、きれいな石をよく見つけた。 父は長く海外勤務をしており、毎回石だけ買ってきて、指輪やネックレスに加工させていた。 豊川稲荷から徒歩圏内の宝石店が母の贔屓の店であった。 私も何度か連れて行ってもらったが子どもが出入りする雰囲気の無い静かな店内に妙にショーケースがピカピカ

昨夜見た夢

老猫ブウニャンが私の足元から最近枕元に移動して来た。 そして私の睡眠時間を減らし浅くする。 それと同時に増していくのは疲れである。 還暦の声とともに体調の微妙な変調を感じつつ、最近の疲れはこれまでのとは違うように思う。 母が他界して一つ肩の荷が下りたことも関係あるかも知れない。 家族の介護・看病は長年の事で、惰性になっていたと思っていたが、やはり多少の緊張感もあったのかも知れない。 ここで老猫の介護が始まりつつある。 昨晩久しぶりに夢を見た。 台湾の母黄絢絢が登場した

雨の午後

雨の午後、時間があって部屋でラジオを聞いていた。 子どもの頃からテレビよりラジオの方が好きである。 昔で言う『ながら族』であった。 自分の部屋はいつもラジオから音楽やらアナウンサーの声が流れていた。 その頃は何をやっていてもラジオから出てくる音楽や声は私の頭に入ってきた。 しかし、今ではそれは出来なくなっている。 これも老化なのであろう。 でも音楽は頭に響いてくる。 忌野清志郎の「ぼくの好きな先生」が流れ、しばらく手を止めてそちらに耳を傾けた。 小中学時代は

二人の年上の女性

日曜日の朝、夜勤明けの帰宅前に施設の調理の女性から「自宅で朝採ってきたのよ」と、キュウリをたくさんいただいた。 「今日はこのあとソフトボールの試合があるのよ」と元気に話される。 失礼だが、まったく70歳に見えない。 長くここの利用者の方々を見て来たそうで時々いろんなことを教えてくれる。 年齢もご自身から教えてくれた。(私から女性の年齢を聞くことはめったに無い。それくらいのデリカシーは持ち合わせているつもりである。) 私の兄もそうであるが障害者、高齢者の施設は多くの人たちによっ

残された未来

人から頂いた手紙を読み返すことなどほとんどしたことがないのだが、昨年の今頃頂いた二通の手紙が文箱に輪ゴムで一緒にされていた。 時間を置いて読んでみようと文箱に残していたのである。 人生の大先輩から頂戴した手紙の中に『残った未来』という言葉があった。 そして、人の生きてゆく道には精魂を傾け、わが肉を削るほど思いつめ、もっている力のすべてを注ぎ尽くさなければならない出会いがある、とも述べられていた。 もう一通の同時期に届いた手紙には交通事故の後遺症のため寝たきりになってしまった実

梅雨と天ぷらうどんの海老との考察

未だ梅雨入りしない関西地方。 降らねば困る雨ではあるが、降れば大雨の昨今の天候に今年も誰かが困惑するのではないだろうか。 宇宙から見たら小さな惑星地球の中で絶対量の決まった水分が、ある時は海であり、ある時は大地に染み込み、ある時は氷にも雨にもなる。 私にはよく分からないがその均衡が壊れてしまったように最近の空を見ていて思う。 足し算と引き算が上手くゼロになっていたのがそうでなくなってしまっているのかと。 地球温暖化の一言で片付けてしまうのか、永い地球の時間の中でのほん

夏来たりなば

なんてことであろう。 気が付けば夏がやって来るなんてすっかり忘れていた。 田植えは終わり、植えられたばかりの稲たちはまだ慣れぬ田の水鏡に恥ずかしそうに自身の姿を投影し、その間を優しい夏風が吹き抜ける。 この風も青嵐と呼んでやれぬものか。 兜エビがその小さな脚をもげるほどに動かし泳いでいる。 何を思いそこにいるのか、問うても返事の返る由もなし。 そう言えばこの数年豊年エビを見ることが無い。 豊作とは縁遠い作業が毎年続けられているのだろうか。 時間は止まらない。 季節は巡

耐力を備えるということ

周りからはあまり物事を深く考えないお気楽なヤツと思われてる節がある。 しかし、実は細かく先のことを考えるのは嫌いじゃない。 ただ、それが無駄になるであろうと思われる時には考える事をしないのである。 当たり前のことを書いているなと自身で思っているが、この見極めが難しい。 毎年この時期に定例となっていた兄の定期検査入院はずっと延期になっている。 愛知の施設から静岡の病院まで連れて行く。 まずは前日に愛知まで行き一泊する、翌朝早く自動車で静岡まで移動する。ついたらすぐに検診があり

紫陽花でおもいだす

大阪は朝から雨です。 梅雨を目前に控え『雨』を話題にすることが多いです。 そして、目にする紫陽花は私にいろんなことを思い出させます。 紫陽花は通学路にありました。 その頃、紫陽花を庭に植えているお宅が多かったように思います。 私が住んでいた豊川市の通学路沿いにたまたま紫陽花が多かっただけかも知れません。 紫陽花の大きな葉の裏から出てきたカタツムリの触角がいつ見ても不思議でした。 触ると引っ込む触角が不思議でした。 ナメクジの触角を触る奴はいないのに皆こぞってカタツムリのそ

『コンセント考』

大阪府八尾市というところに住んでいる。 縁もゆかりもたいして無かった場所に移り住んで10年近くなる。 当時、母の認知症は悪化の一路を辿っており、母の最期までを考えての介護に頭を悩ませていた。 八尾でその頃から手広く高齢者介護事業を手掛ける女性経営者に「あんたのお母さんならば、看取りまでするから八尾に引越して来なさい」と言われて頭ばかりか心まで病みそうになっていた私は二つ返事で転居を決行したのである。 奈良の家を売り、八尾に家を建てた。 母は結局八尾に移り住むこと無く愛知県

6月1日久々に旧知と会ったこと

水曜、雑事を片付けた夕方、サラリーマン時代の取引先の男と時間をともにした。 心斎橋、だいぶ客足は戻っているようである。宮崎地鶏の焼き鳥屋には一番乗り、世が更けるとともに店は満席になった。まだ丁寧にマスクをしながら外しながら酒を飲む人間もいるが30分ほどが限界のようである。時間とともに以前と変わらぬ光景が焼き鳥屋のなかにも広がっていった。 この彼とは現役時代よく酒を飲んだ。大阪駅前ビルの地下の飲み屋街によく行った。勢いで何度か国道一号線を渡り、北新地まで行ったが彼の会社の行きつ