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【読書雑記】川野芽生「最果ての実り」

※本稿は、川野芽生『無垢なる花たちのためのユートピア』(東京創元社、2022年)所収の「最果ての実り」ついて気ままに書いた雑記です。以下、多少のネタバレを伴いますので、表題の作品をご覧になっておらず、これから読むつもりの方にあってはご注意ください。

また、以下の文章は当然のことながら私個人の読み方、解釈によるものであって、それが作品世界をすべて汲み尽くすものではないことをご理解ください。本稿を読んで、面白そうだと思ってくださり、実際に作品を手にとって読んでみようとしてくださる方がいるとすれば、作品はその方自身の読み方にも開かれているものと考えています。


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舞台は大戦争によって古代人(旧来の人類)が滅んだ後の世界、遮るものがなにもないだだっ広い曠野のなかの湖――それは古代の研究施設の跡地だった――で、機械と融合した半人半機械の男と身体から植物を生やした半人半植物の少女が出会うところから物語は始まる。

男はその湖から東にある〈ポリス〉という都市の一員で、そこでは彼と同じような機械人間が〈ポリスの父〉の腕として、かつての都市の廃墟から金属を回収したり、古代の兵器の無力化を行うなどの職務を全うしている。〈ポリス〉では、〈ポリスの父〉による管理のもとで次代再生産が行われているが、我々が思う生殖と同じものではないようだ。

一方、半人半植物である少女の種族は「三度目の春を迎えると花季になって」(p.162)、花季の若者は恋をすることで種を残す。少女が語るに、恋というのは花季の若者が同じく花季の若者を目にし、一方が、あるいはその両方が恋に落ちることだ――卑近な言葉で言えば「一目惚れ」することだと言えるだろうか。彼らは恋することで自ら結実して種を残し、彼らの身体はそれによって枯れてしまう。彼らの恋によって生まれた種は、やがてそこから子供――つまり少女と同じ半神半植物の生体――が生まれる生みの木となる。彼女たち種族の次代再生産は、恋によって引き起こされるのである。

少女は彼らの種族が実をつける様を男に説明するが、それはとてもグロテスクで恐ろしいものだ。曰く、彼らは恋をすると頭部が果実となってみるみる膨れ上がって真紅に色づき、やがてその果実に一本の亀裂が入ると、果実が弾けて黒い種が飛び散るという。ところで、彼女がそのことを説明できるのは、彼女と目があった同じ種族の仲間が恋に落ちる光景を何度も見ているからだ。だが、少女はいまもこうして男の前で存在を保っている。このことは何を示しているか――少女は恋をしないのだ。

恋をして種を残すことは、「誰にとっても喜ばしいこと」(p.162)だと同じ種族のものは言う。恋をしない少女に対して、仲間からかけられる励まし、あるいは慰めの言葉は「何も気に病むことはない」、「いつかはちゃんとあなたの番が来るから大丈夫」(p.163)というものである。「何も気に病むことはない」という慰みは、恋を経験しないことを少女が気に病んでいることだろうという勝手な憶測を前提としていて、また、そうした憶測が成立するのは、彼女の種族にとって恋が誰しもが経験するはずのものであるという、強固な規範が存在しているからに他ならない。「いつかはちゃんとあなたの番が来るから大丈夫」という言葉は、「何も気に病むことはない」という言葉で否定したはずの、少女の気が病んでいるという前提を持ってきて、それが治ること、治癒可能なものであるという主張を内包してしまっている。「気に病むことはない」としつつも、「いつかはちゃんとあなたの番が来るから大丈夫」という慰みは、それら自体矛盾した、奇妙で無意味なアドバイスなのである。しかし、この矛盾は彼ら種族の社会のうちに存在する恋という名の規範によって貫かれてもいる。

恋をしない彼女には、何が気を病ませることになるのかがわからない。彼女自身が何かをしたわけではないから。けれども、恋によって繁殖する機能を備えている者たちにとって、彼らの種族が遅かれ早かれ誰かに恋をする生物なのであるということが疑いようのない真実となってしまっているために、少女は慰められるのである。


少女は恋によって次々に友人を失くしてきた。彼女は、故郷である森が春を迎えるときの美しい光景を語る。けれども、今の彼女にはそれを美しいものとして思い出すことができない。森の美しさは、彼女の仲間が恋によって死んだその亡骸によって支えられたものだからだ。彼女は、そのために孤独にさせられてしまう当のものから離れるためにこうして湖を訪れている。

恋によって種を残す種族において、恋をしない少女のような者が存在していることは端から想定されていない。少女は自分のことを誰かに話すことができない。先程、少女に対して投げかけられた頓珍漢な慰めについて見たが、それは彼ら種族にとっていかに恋というものがいかに重要なものであるかという強固な規範を前提としたものであった。そのことによって、彼女はますます自分自身について語ることができなくなる。語る言葉が奪われてしまっているのだ。

斯くして少女は絶望的なコミュニケーションのなかを生きている。彼らの種族のコミュニケーションには、つねに潜在的に不可避的に恋というものが関わっており、恋のうちに回収されないコミュニケーションが存在しない。したがって、恋と関係しない形で他者とやり取りすることが不可能なのである(ある意味で、恋をする側にとっても不可能とも言えるかもしれない)。仮に恋をしないことを誰かに打ち明けようとしても、友人が彼女のまなざしに恋をしてしまえば、彼らは「もの言わぬ種として弾けて」(p.166)しまうのである。その言葉はいったいどこに向かい、どこに届くというのだろう。

恋が、少女から友人を奪うが、少女は恋をしない。そんな少女にとって、湖で出会った半人半機械の男と出会い、言葉を交わせることがどれだけ奇跡的なことだろうか。同じ種族においては、他者は少女の眼差しによって声を発する間もなく枯れてしまうのだから。

言葉を交わすと言ったものの、〈ポリス〉の男と森から来た少女は、互いに異なる言語を話しており、それらは互いに聞き取り理解することが容易ではない。生態も文化もまったく異なっているため自らのことを説明する語彙や概念は彼らにとって独特のものであり、他方にとってはそもそも言葉として聞こえてこないのである。そのため、男には少女の声が草木のざわめきにしか聞こえない時があり、男が自分自身のことについて語ろうとするとそこに機械の立てる異音が交じるのを感じる。だが、男には(そして少女には)それが言語であることが、そして互いの言語が「同じ言語の異なるヴァリエント」(p.159)であることが何故か分かる。そこで男は、「一度も使ったこともなく、聞いたこともなく、知りもしない、知っているはずのない古い言葉」(p.159)を用いて少女との会話を試みる。他の仲間たちが実となり種となってしまうことを恐れて、その身が寿命で枯れるのを孤独に待つ少女と、ポリスの一員として忠実に働くことだけに身を捧げてきた男は、そうして自ずと自らについて話し始めるのだ。


上ですでに書いたように、「最果ての実り」における2人の登場人物は、湖で出会うのだった。湖の中の柔らかい泥土に膝をつく男。森から来た少女は湖の中へ足を踏み入れる。身体を沈め、彼女もまた「水の中の人」(p.156)となった。彼らが出会って三日目の日、空から流星が降り出して、再び湖にやって来た少女は自分の身を守るためにまたも水の中へ入る。ここから、二人のやり取りが始まる。以降、物語の終盤まで二人のやりとりは水の中で行われることになる。

水は、「最果ての実り」においてアンビバレントな意味を帯びている。半人半植物である少女にとって、水はその生命を維持するために必要な不可欠なものである。彼女はある時渇いた喉を潤すために水を求め、泉へ向かった。そのとき、泉の水面越しに彼女は友人と目があった。お分かりだと思うが、その友人は結実し、種を弾けだし、そして枯れていったのである。それが、彼女が失った最初の友人であった。以降、次々に恋によって死んでいく友人たちを、彼女は「水の沫のように消えていった」(p.163)と話す。だが、彼女はまさにその水の中で、彼女と目を合わせても消えることのない〈ポリス〉の男に出会ったのである。また、半人半機械であるその男にとって、水はその生体の機械部に損傷を与える危険なものである。しかし彼は、〈ポリス〉の職務をまもなく「退任」するというときに、その職務をなげうって曠野を行き、初めて目の当たりにする湖にひかれてその中へ入ってゆくのだった。このように水は、両者にとって非常に微妙な関係のうちにある。少女を絶望させつつ、恋を伴わない出会いを可能にした水。男の身体を脅かすものであり、男を誘惑のうちに引きずり込む水。

湖の中にいる二人を隔てつつ、二人を湖のうちに包み込むという、水の曖昧さ、両義性。水によって二人は互いに交わることなく隔てられている。一方で、水が媒体となって、二人は湖の中でひとつの秩序の中にその身を置いている。かくして、二人の関係性は決定不可能なものに開かれてゆく。二人の関係性を掴み取ろうとするあらゆる試みは失敗する。水を掴み取ろうとしても、その手の隙間から水が溢れ出てくるように。

水が、湖がテクストのまわりを囲んでいる。川野さんの穏やかで静謐な筆致は、二人がその中に入っている湖の穏やかさでもあると思う。その湖は、波も立てずに二人を受け入れている。波の立たない水平な湖が、それぞれが互いに異質である二人(二人が互いに異質であるとともに、特に少女は彼女の社会においてマイノリティという意味で異質な存在である)を水平に繋いでいるのだ。やがて男が湖の底に沈んでていた機械とともに湖岸に上がるとき、二人の間の静穏は乱れ、物語はクライマックスに向けて動きはじめる。そのとき、もはや男には少女の声が「木々のざわめきとしか聞こえない」(p.172)のだ。

「最果ての実り」は、小説集『無垢なる花たちのためのユートピア』に収められた一篇だ。『無垢なる花たちのためのユートピア』というタイトルは収録作の一つからつけられたものだが、そのタイトルがこの小説集全体の題をなしているということに考えを巡らせてみるのも面白いかもしれない。「最果ての実り」において、少女は頭に花を実らせており、また、恋することで結実し種をのこしていく半人半植物の種族の一員だった。そんな少女にとって、恋によって枯れていく友人たちを見ることなく孤独に過ごせる湖、そして、自分の姿を目にしても枯れることのない半人半機械である男に出会ったその湖は、少女にとってユートピアだったのではないか。その後「最果ての実り」が描くラストシーンは、決してハッピーエンドとは言えない。けれども、少女のような存在が想定されていない社会にあって、少女の存在を、存在しているという事実を包み込むその場所は、少なくとも彼女にとって束の間のユートピアだったことはきっと確かだったのだろうと思う。

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ここまで川野芽生『無垢なる花たちのためのユートピア』に収録されている短編「最果ての実り」についての感想(?)を書いてみました。随分と散らかった内容になってしまいましたが、ここまで読んでくださる方がいらっしゃればありがたい限りです。

『無垢なる花たちのためのユートピア』には上で紹介した「最果ての実り」ほか、表題作をはじめ、「白昼夢通信」、「人形街」、「いつか明ける夜を」、「卒業の終わり」の計6作が収められています。どの作品も美しく繊細な言葉によって紡がれた幻想的な世界が描かれていて、個人的には言葉がすっと心のなかに流れてくるようで、かつ言葉の魅力に惹きつけられるような、波に揺られるような、そんな読書体験をしました。

さて、その中に収録されている表題作「無垢なる花たちのためのユートピア」なのですが、以下のサイト(Web東京創元社マガジン)にて8月31日までの期間限定で無料公開されています。本記事で取り上げた「最果ての実り」とは別の作品になりますが、こちらの作品もめちゃめちゃおもしろいのでおすすめです(最初の一文からしびれます)。この夏の読書にぜひ、いかがでしょうか。


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