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キヨちゃんとぼく

キヨちゃんに初めて会ったのは、20年ぐらい前の高円寺のライブハウスだった。

当時、田舎から大学進学で上京してきたぼくは、バンドで成功するんだろうとなぜか固く信じていて、高校と大学で知り合った友達とライブをしては、安くて汚い居酒屋で不毛に世の中を批判していた。そういった連中が大学にもライブハウスにも割と溢れていた。今となっては、もうちょっと色々ちゃんとしてくれよ、とも思うが、あれがあの時の精一杯だったような気もする。思い出すと顔から火が出そうなことが山のようにあるのだけど、それはまた別の機会に譲るとして話を最初に書いたキヨちゃんに戻そうと思う。

キヨちゃんは、バンドのボーカルをしていた対バンの女の子で、組んでいるバンドはパンクとロックの中間地点あたりの感じ。しゃがれ声でボーカルをしていて、20年前の女の子としては珍しく、腕には刺青が沢山はいっており、身長は150センチ弱ぐらい。歳が当時二十歳過ぎぐらいでぼくと近く、やせ型、つり目でよく喋る子だった。ライブハウスの台帳を見て、ぼくの名前を覚えたらしく、呼び捨てでいきなり話しかけてきた。ただ、漢字に弱いのか、一般常識に疎いのか、馬壁太郎という僕の名前を、「まー かべたろう」だと真剣に思ったらしく、最初は、ずっとマ-と呼ばれていた。
ライブを見て、ぼくらのバンドを気に入ってくれて、何回か自分の企画ライブに呼んでくれた。良い音楽仲間だと思っていたし、歯がガタガタだったけど、見ようによっては美人だったから、ワンチャン狙っていた節がなかったとも言えない。ただ、キヨちゃんは、別のバンドの男の子達と付き合いだした。

キヨちゃんについて覚えていることは、記憶力が悪いぼくにしては、割りと多い。いくつか特徴的なエピソードを書いてみる。

物怖じしなくコミュニケーション能力に長けているキヨちゃんなのに、なぜか友達は少ないみたいだった。その理由の一端を、その後付き合っていたバンドマン達から聞くことになる。どうやら彼女は、妄言癖があるようだった。「お母さんが騙されて」とか、「義理のお兄ちゃんが治らない病気で」みたいなどこかで聞いたような不幸話を延々し、その話に矛盾が生じることが多々あるようで、初めは親身になって聞いていた純朴なバンドマン達も、長い期間関わると辟易してしまう。
ただ、中には真実も混ざっているようで、16の時に子供を産んで離れ離れで生きている、という話は本当のようだった。なぜかお腹の皮がひじの皮みたいなのだ、と酒の席で酔った彼氏だったバンドマンたちに聞かされたので。

また、キヨちゃんは、特定のアルバイトをしていないようだったけど、お金に困る様子はなかった。これも彼氏となったバンドマン経由で明らかになるのだけど、どうやら援交をしているようだった。のぞき見したキヨちゃんの携帯のメールに、「ホ別2」などのワードがあり、察したという。貧乏バンドマンだったぼくには、お金を使ってまで女の子に何かする、というのは、遠い世界の大人の社会の出来事に思えていたので、もの凄い衝撃を受けた。二十歳にもなって、本当に子どもだったんだなと今にしては思う。キヨちゃんなりに、揉まれてきた社会の中で生まれた生き残るノウハウだったんだろう。

そんなキヨちゃんと、一度だけ、ぼくとの距離が縮まりそうになったことがあった。

梅雨の時期の夜だったように思うが、突然、キヨちゃんから、不安定すぎて涙がとまらない、というメールが入っていた。ぼくはすぐに、電話をかけてみたのだが、電話には出ず、涙で喋れないからごめんね、という返信だけ返ってきた。しばらく考えた末、ぼくは、泣きたい時には泣いてもいいんだよ、という返信をした。そこから、全く返信はこなくなった。

ぼくには未だにあの時の正解が分からない。確かに、返した返信は気持ち悪いものだけど。

結局、お互いバンドはうまくいかず、20代半ばぐらいで解散になってしまって、その解散ライブに顔を出して以降会っていない。多分、今後も会えることはないだろうけど、時々、頭の片隅から現れたりするので、名前を検索していた。10年前の30歳ぐらいまでは、ブログで追えていて、確か子連れの旦那さんと結婚した、ということだったと思う。子供の虐待のニュースを見るたび、悲しくなるとのことだった。

この記事を書くにあたって、名前を検索してみたのだけど、ブログはなくなっていて、SNSでもなかなか見つからなかった。唯一これかと思う人を見つけたのだけど、あまりの変わりぶりに確信をもつことが出来ずにいる。

見つけた先は、お寺だったのだ。多分、尼さんとして出家してたのだと思う。

瀬戸内寂聴か!!!!!!

#創作大賞2023 #エッセイ部門


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