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ほんのひと手間、心を尽くせたら。

「手間ひまを省くことに、私たちは心を奪われてきたと思います。
手間を省くことが智慧ではないのです。
むしろ、手間をかける智慧から、慈悲が生まれるのです。」

手間ひまかけること ー智慧と慈悲ー
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺さんの言葉

昨年、毎週楽しみにしていた、「鎌倉殿の13人」。その鎌倉時代に開かれた北鎌倉にある禅宗のお寺、円覚寺の管長、横田南嶺さんの言葉です。

いつからか、気がつけばずっと考え続けていて、探し続けていることがあって、その答えは何年経ってもまだ見つけることができないままなのですが、この言葉を聞いたとき、何かそこにもまた大きなヒントがあるような、あるいはそのものずばりのような気がして心から離れなくなりました。

「慈悲」、というとちょっと重たく感じてしまうかもしれませんが、その本来の意味あいや意図することとは違うものの、私自身に照らし合わせて考えてみると、大切な人やものごと、誰かや何かのために、自分にできることをする、ということから始めてみる、くらいかもしれません。

世の中は、次から次へと便利なものが現れ、コスパがいいとかタイパがいいとか、効率やスピードがますます重視されていくようにも感じられます。
ちょっとした手間でも面倒くさく感じられたり、ほんの少しの時間でさえ無駄に思えたり。
この先、様々な分野で、ボタン一つ押せばAIが判断して機械が自動的にすべてやってくれるようになっていくのかもしれません。
そうなったときに、では人間はいったい何をするのか、その頭で何を考え、その手で何を使い、何を生み出すのかということにもとても興味があるのですが、それはまた別の話。

手間暇かからず、面倒なことは一切不要、簡単、楽に、時間もかからずあっという間に欲しいものが手に入る。
例えば、もしそれが人と人との関係や、人と動物、生き物との関係においても、次第にそうなっていくようになってしまうとしたら、それはやはりどこか寂しいというか、悲しいものがありますが、もうすでにそうなりつつある「暮らしていくこと」も、一見異なるようで実は同じなのではないかとも思えてきます。

料理にしても、片づけにしても、様々な家事にしても、「もの」と向き合っているようでいて、けれどその先にはやはり誰かがいるものです。
今目の前に向かい合っていることのその先にいるのは、自分自身であったり、家族であったり、大切な人や大切な何かであったり。

自分にとって大切なものと共にありたいと思うとき。
何かを共に分かち合いたいと思うとき。
大切なもののために、自分にできることは何かと考えたとき。

それは何も特別なことでもなく、ささやかなものかもしれません。
こうしなければならないとか、なになにすべきとか、形に押し込めるようなものもなくていい。
ふとした時に、大切なもののことを思い気にかけるように、大切なもののために、ほんのひと手間、心を尽くせたら。

何か変わったことがあるわけでもない、特別なことなんて何もないような、当たり前のような日々の暮らし。
けれどもそんな、何の変哲もないような当たり前のようなことの中にも、大切なことを見出せたら。
今目の前にある瞬間瞬間に向き合い、ささやかなことすらも、大切なものと共に、愛おしく慈しめたら。

暮らしの中に感じる楽しみや嬉しさ、喜びとは、そんなところにもあるような気がして、未来にも心を尽くせるひと手間は残っているだろうかと、思いを馳せてしまいます。


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