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人生の前半戦で出会えたもの。後半戦の目標。

人間五十年、と言われたのはいつの日か。
よもや自分もあともう少しでそんな年を迎えることになろうとは、思いもしなかったわけではないですが、やはりあまり実感はないものです。

「四十にして惑わず、五十にして天命を知る」とはいうものの、いざ五十を迎えて嬉しいことといえば、夫婦で映画を見に行くと割引になる、ということくらい。

とはいえ、もう確実にこの人生も後半戦に突入していることは間違いないので、ここしばらく感じていたけれどなかなか言葉にできなかったことを、この節目に一度言葉にしておこうと思います。

という訳で、以下、人生の前半戦で出会えたもの、後半戦の目標について。

気がつけばもう30年以上、探し求めていることがあります。
ここ数年は、ようやく見つけられそうな、たどり着けそうな、そんな予感は次第に強くなってきてはいるものの、なかなか巡り合えず、たどり着けそうでやっぱりたどり着けない。心が静まり返れば返るほど、体中の感覚がびりびりとざわめき続ける、そんな状況が続いています。

自分がたどってきた道のりについて、自分で考え、選択し、行動してきた結果だと思ってきたことも、そうではないかもしれない、と思うようになりました。
他に比べたらこちらの方が適していそうだから、とか、もう他に選択肢があまりなくて、とか、そんな消極的な理由から選択してきたようなことも、後になってみれば、あぁ、全部繋がっていたんだなと思えたり、むしろそちらの方がより良い結果に結びついていたり。
その時はなぜだか分からないままに自然と体が動くようなことも、後になってからそういうことかと自分の中にすっと納まってきたりすることも多いものです。

自分が「自分」だと思っているものとは違う、自分の中の別の「何か」が先に体を動かし、「自分」だと思い、「私が考えている」と思っているものが後から理解する。
日常の些細なことから大切なもの、極限状態の時などでも、収まるべくして収まるものは、むしろそんなふうに選択されてきた結果なのかもしれないと感じることがあります。

自分の中にいる、「自分」だとは認識していなかった「何か」。

それが誰かなのか、何かなのか、どこかなのかも分からないけれど、おそらく誰の内にも、あらゆる生命の中にも、あらゆる物質の中にも、あらゆる空間にも、どこにでもある、途切れることなく循環し続ける、引いては打ち寄せる波のようなゆらめき。

学生の時に研究対象として選び、就職したメーカーでも原材料として使われていた植物が、大地と大気から栄養を作りながら育ち、時には他の生物に栄養として取り込まれ、やがては朽ちてまた大地に戻るように、鉄も長い年月をかけて大地をめぐり、様々な生物に必須の元素として生命をめぐり、時には製錬されて形となり道具や何かとなり、いずれは錆びて朽ちてまた土に還る。
永い永い時をかけて形を変え、様々な場所や物や生命の中を循環し続けるサイクルは、ごくごく短い時間の中で見れば、川の流れのように一方向に流れているようにも見えるし、もっと長い時間の中で見れば、ひとつの海の中で寄せては返す波のようにも見え、あるいは地球全体を循環する水や大気の動きのようにも、宇宙全体をめぐる物質の動きのようにも見えます。

そういう波のようなゆらめきは、自分の中にも、自分を取り巻く周りの物の中にも、自分と周りの物との間にも絶えずあって、自分や道具も、周りの物もあらゆるものも、途切れることなくつながっている中で、共に揺らめいているのでしょう。

何かと騒がしい意識がようやく静まり返ったその奥で、光に満ち溢れ、輝きながら波打ち、ただただ安らぎに満たされている「何か」。
ゆらめきの中で、まるで夢中になって波乗りを楽しんでいる子供のように、ただただ喜びだけで満たされている「何か」。

形を溶かし、姿を溶かし、言葉を溶かし、自分を溶かし、呼吸を合わせてそのゆらめく波間にゆだねてみる。
ゆらめきどうしが合わさるように、一瞬でも収まるべき場所に収まっていくことを感じるとき、このゆらめきの中にあるものを、ずっと感じていたくなります。
どこまでも繋がっているゆらめく波の先にあるもの。決してたどり着けないとは知りつつも、それでも知りたくもなり、見たくもなります。

自分の中にもある、この波打つゆらめきが本当のところ何なのかは分からないけれど、光と調和、安らぎと喜びに満ちたこの「何か」が選択していくものが何なのか、波の合間、せめて自分の生き死にの狭間の時には、あぁ、そういうことだったのかと思えるように、人としての生ある間の後半戦もゆらめいていたい。


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